3月になっちゃった。この頃のこと。
1.先週、高校の卒業性と在校生の集まりに行った。私的なわだかまりがある元教員が話をするというので様子を見に行った。定年退職からかなり年数がたっているので、生き物としてなにがあってもおかしくないからだ。見る限りは元気そうだった。話はくそほどつまらなかった。このひとには機を改めて話をしに行こうと思う。会の運営をされていた在校生の方々、卒業生の方々がかっこよくて、それは嬉しいことだった。
2.横浜市民ギャラリーあざみ野でやっていた上原沙也加さんの個展、『たとえすべての瓦礫が跡形もなくきれいに片付けられたとしても』を見に行った。上原さんの写真はそこに写し取られている光の明るさと白さが印象的だった。引きで見るとその光の質感の印象が一番に感じられるのだが、近づいて一枚一枚をよく見ると、鮮やかな色の服を着たマネキンを覆うガラス窓に映った点字ブロックの黄色や、港のそばにある店の看板に書かれた文字、道を歩いている人々の表情など、写真に切り取られたシーンの中にあるひとつひとつのものが情報量を損なわれずないままでそこにあることや、一枚の写真という平面にいくつもの層が折り重ねられていることがわかる。その厚みに驚く。印刷着実にも驚く。私が知っていること、知らないこと、知りたいとどれほど/どのように思っているか、で見ることができるものが変わる。そういう作品だった。
モノクロ写真の作品もあった。モノクロ写真には伏せられている情報がカラー写真と比較して明確にある。私が知らないことや、影になって見えずらくなっているところをイメージで補わない=侵略しない、自分が捉えることのできないなにかの姿を尊重することがちゃんとできるだろうかと思った。写真に取られたものは私が見たものではないし、見たことがあるものでもない。私はそこの空の色、木の、葉の、道の、そこにあるのものの色を知らない。写真の中の陰影の深い部分は何があるのか見えなくて、そこが一体どうなっているのか、知るすべもない。そのことにきちんと敬虔でいたいと思った。
カラーの写真には、沖縄の地名がタイトルとして冠せられていて、それを確認しながら写真を見ていく時間が大切だった。どこの場所にも名前があって、そこに集い、根をはってきた人々・いのち・営みがある。それをここに(会場に、そしてずっと本土・東京に)いる私は知らない。知らないままで奪っていること、踏みつけていること。それを知っていかなければならない。
写真を見るのは好きだ。絵を見るのも好きだなと最近思うようになった。
3.同人誌の表紙を印刷所にひとまず提出しました。もしかしたら不備があるかもしれませんが……。のこり一周間ちょっと、集中して本文に取り組みます。
4.アメリカとイスラエルによるイランへの爆撃。命を、土地を、住処を、どんな手段であれ破壊し、奪うことは許されない。くそが。