今日、クリストファー・ノーラン最新作である「オッペンハイマー」を観た。拙い文章になると思うが、感想を記しておこうと思う。
観る前から、自分はオッペンハイマーのことをマッドサイエンティストかなにかかと思っていた。しかし劇中で彼はずっと苦悩し続けていて、マッドサイエンティストなどではない。原爆が、世界を地獄に変えてしまうのではないかとずっと危惧していた。
映画の最後のシーンにその全てが詰まっている。核分裂の連鎖反応が世界を飲み込むのではないかと危惧し、アインシュタインに相談していたのだが、結局そのようなことはなかった。そのことをアインシュタインに語った後、「確かに私は世界を壊した」と言って彼の心象風景が映る。原爆を搭載した何発ものミサイルが空に登っていき、物語は終わる。
核分裂の連鎖反応は世界を覆わなかったが、核競争の激化による対立の連鎖反応は世界を覆ってしまった。
そして考え込んでしまったアインシュタインに無視されたと感じた研究所の所長は、オッペンハイマーがなにか自分の悪口を言ったんじゃないかと疑い、オッペンハイマーに嫌がらせをするという...
核競争しかりオッペンハイマーと所長の間の確執しかり、疑心というのもまたテーマになっているように感じる。
オッペンハイマーの人間性にも驚かされた。理論にのめり込む様子は想定通りだが、結構な女好きなところは意外だった。
そして研究者間の情報共有の重要性を説いているところも印象的だった。マンハッタン計画は当然最高機密だったわけで、研究所内部でも軍は徹底的な情報統制を敷こうとしたが、劇中でオッペンハイマーはそれだと計画に遅れが生じるとして自由に情報をやり取りできるよう上に掛け合っている。
これは今のハッカー文化に通ずるところがあり、めちゃくちゃ共感した。その精神はロスアラモス国立研究所に残り続け、今も自由な気風が残り続けているという(参考)。 https://arxiv.org/ という今の大学生なら少なくとも一度はお世話になるサイトを立ち上げたのも、この研究所なのだと今調べて知った。素晴らしい...
映画で原爆は2度爆発し轟音を上げる。1つはトリニティ実験で、もう1つはオッペンハイマーが勝利の演説する最中の彼の心象風景で。この2つは物語の大きな転換点になっていて、映画を振り返れば上手い対比になっている。
トリニティ実験では周囲に絶賛され、オッペンハイマーも誇らしげな様子でいる。2つ目の演説中の心象風景でも彼は周囲に称賛されているが、彼自身は作ってしまったものに慄き、真に悔いているように見える。
本当に轟音なので、これから観る人は覚悟した方が良い...
唯一、自分が劇中でリアリティが無いと思ってしまったのは、オッペンハイマーが観衆の中に見る被爆者の幻覚だった。皮膚が溶けているようだが、ビロビロしたスライムが付いているだけで作り物にしか見えない。現実はもっと凄惨なものに違いない。
しかし、この文章を書いていて、彼の幻覚ならばあれが彼の思う被爆者の姿なのだと思った。オッペンハイマーは広島、長崎への原爆投下をラジオなどでしか知らない。広島、長崎の被害の報告を受ける際は、資料から目を背けている様子が映画で描かれている。しかし黒焦げになった死体の幻覚なども見ていることから、ちゃんと現実を知ってはいることが分かる。
地獄の釜の蓋を開いた第一人者ではあるが、しかし真に物理学に惹かれ、無心に理論を構築し、自分の作り上げてしまったものに苦悩する。マッドサイエンティストなどではなかった。
...ちょっと今はまとめられないな。今度加筆する。多分。