先日、Nozomi Nobodyさん(以下「Nさん」)のライヴに初めて参加してきました。たまに訪問する本屋さんで、このライヴの日程を知り、ぜひ行きたいと思い予約しました。
ライヴは、陸の孤島のような場所にあるその本屋さんの店内で、普段の生活では得られない何かをひそかに期待した聴衆に囲まれながら、ゆっくりと始まりました。
Nさんはたったひとりで、フェンダー・テレキャスター1本の弾き語りをしつつ、ループステーション等のエフェクターを使用した形式のライヴをされました。その歌声は、透明感と浮遊感を同時に現出し、かつ、ポリフォニックな音像によって、「たったひとりで可能となる表現の限界性」を軽やかに越境するような包容力をも持ち合わせていました。
Nさんのアーティスト名から、当初は池田晶子さんからのインスピレーションを勝手に感じていました。『14歳からの哲学』をはじめ数々の名著を残し、46歳で早逝したその文筆家を顕彰するために創設されたのが、「わたくし、つまりNobody賞」という名称の賞だったからです。
「たったひとり」というのは、行為の淵源や責任の所在を明確にする「近代的個人」という虚構性とも、また、近代が個人に求める厳格な帰納性から常に逃走を企てる「Nobody」という匿名性とも、それぞれに親和的な概念であり事態そのものを指し示します。
アンコールには「生活」という1曲で応え、その曲だけはマイクを通さず、聴衆一人ひとりに歌声を直接届けてくれました。思えば、自作の曲に「生活」と名付けることは、集大成のアルバムにセルフタイトルを付すような、ひとつの持ち重りする決断があったのでしょう。ままならず、つれない人生の日々を忘れさせるような素晴らしいライヴの締めが、それでも各々の日常の生活へと帰還を促す歌声でなされたことに、Nさんのアーティストとしての覚悟と矜持を見た思いです。
「青い炎は赤いそれよりも温度が高い」というのは、もはや人口に膾炙しすぎたクリシェでしょう。しかし、積み重ねられたそれら手沢をも静かに焼き尽くす膂力をこそ、Nさんの美しい歌声に感じた一夜でした。