好きなこと/無邪気さ

icchii317
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「自分が何を考えているのか観察するのが好き」

これはとあるYouTubeでとある人が話していたフレーズ。これを聞いた時に「言っていいんだ」と感銘を受けた。自分も同じだけど、気づかないふりをしていた。

自分が何に関心を抱いているか、その関心がどう移っていくのかをひたすら観察し続けている。

その過程で、新しい世界が開けていく感覚になる時が一番楽しい。それは便利な道具(自分の考えてることを言い表してくれる概念とか)を手に入れた時とか、興味範囲ドンピシャの本を見つけた時とか、「これで生きてる人いるの!」みたいな、共感マックスの活動をしている人を見つけた時とか。

そういう営みの派生で、人と会って話すのも好き。ただし、人との会話を通して、「世界がクリアに見えるようになること」が好きな気がする。

たまたま、興味のある領域が「人の話を聞くこと」などで、ごっちゃになっていたけど、まずは自分にしか興味がないということをいよいよ認めなければどうしようもない。もう、コミュマネを4年もやったのに、もちろん、アオイエを通して出会った人、特に住人のみんなのことは好きだけど、アオイエから離れた時に、それでも関わりが続くような人のイメージは、「私の考えてることを一緒に面白がれそうな人」だったりする。

書いててなんか泣きそうな気持ちになった、このことについてはまたあとで考えよう。

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私のキャリアは、子供みたいに、無邪気に「これは楽しい」「これはやだ」と選択してきた結果であって、それはそれで良いとして。

贈与は、ある文脈で世界を捉えることを決めないと、見えてこないものだから、少し長くそこにいないと、ずっと子供のままだ。

無邪気に、いまの自分のままで与えられることや、それによって起こる豊かさを選んでいった結果、アオイエという所に辿り着いたのだと思う。

ただ、ずっと「いまの自分」でいられると思っていたアオイエでも、実際は、ある部分では在り方が規定されていた。そのことに自覚的でなかった。

決めないことによる弊害は、諦めがよく起きること。自分を否定しがちになること。

無邪気なはずなのに、笑い方はどこか悲しい。

全てを選びとれるわけではない。今までの人生も、意志と縁が混ざってできている。

でも、その場所の文脈を自覚し、自分の人生とは異なっていると自覚し、その上で、どのくらい乗っかっていくのか、これからの人生では、考え続ける。

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p.s.写真は文章とは全然関係ない、大三島のゲストハウス&カフェをやっているsandoさん提供のエルビスサンドです。可愛い。