随分と日記をサボったものだ。
言葉にするというのは思考をピン留めするということで、流しっぱなしにしておきたいときには向かない。
しばらく流しっぱなしにしていた思考とは「仕事を辞めたい」を主とし、自分の感情をそのままに受け止めたかった。
言葉にすればそれは言論になり、私はそれを読み反論を考える。紛れもなくこれは私の思考の癖だ。
その結果自分の仕事辞めたいという感情は否定され、希釈され、希釈され、希釈され、最後に残った澱だけが、胸にとどまる。
言葉に書き出すことで思考を整理できる、というのは欺瞞だ。
私の場合うまくいかないことも多い。
昨日は久しぶりに美容室に行き、古着屋にスエットを探しに行った。晴れていてまさに初夏。気持ちが良かった。
美容室に行ったあとの俺は世界一かわいい。
デパ地下の弁当を買って帰り、定例の歌会。
歌会の後、3時間くらいいつも話しているのだが、その中で初めて自身の恋愛について話すことになった。
まさかこの場で「あいおさんは好きな人がいるんですか?」という質問が飛ぶとは思わなかった(そういうことを気軽に聞かない、配慮に溢れた人たちだ)から、面白くなって笑っていた。
私の恋愛周辺の感情について、いつも他の人に理解されない部分を理解してもらえて嬉しかった。し、彼の恋愛に対する思考を聞けたのも嬉しかった。し、彼が愛についての論文を教えてくれたのも、嬉しかった。
私を理解してくれる人は、友人の中にいることを忘れたくないですね。それも1人ではなく、こんなことは本当に奇跡ですよ。
仕事を辞めたいという感情の根底にあるのは、自分がどこへ行ってもなんとなくズレていて、いつも周りに合わせることに必死で、周りの状況などを敏感に察知して考えて動くから疲れるし、何も考えずとも共有できてるという無敵の安心感がなく、基本的に怒りなどの不愉快さに満ちていて、本当は不機嫌でいる、ということだと、この日記をやらない間考えていた。このことをchatGPTに相談し、自分の感情がより明らかになっていくにつれ私は泣いた。
何も考えずとも共有できる安心感など、マジョリティの人間の共同幻想なので、そんなものはないという共有認識を持っている人たちとの安心感を私は望んでいるし、求めている。そういう共同幻想に対しての、怒り、虚しさ、悲しみ、寂しさ。(私たちは私たちで、そういうものはない、という共同幻想を共有していると、言えなくもないが)
AIとの対話の結論として私はこれから自分が息のしやすい場所に移動できるような選択をすれば良いということになったが、果たしてそれを仕事で見つけることなどできるのだろうか、という、またも閉塞感に覆われる。
仕事に限らず自分が苦しみ辛みを抱えながらも全く壊れる気配がないことがずっと嫌で、中途半端な苦しみのまま、「家族が壊れてくれないかな」「自分が壊れてくれないかな」「世界が壊れてくれないかな」って思いながら生きてて、早く限界来てくれないかな、って思ってること自体もう、限界なのかもしれないが。