M-1や令和ロマンについて考えている。
言語化というものがもてはやされすぎている時代ですよねえ。
私も言語化するのも言語化が上手い人も大好きですけど、昨今の言語化ブームみたいなところには、恐怖さえ感じる。
自分がマジョリティ側にいることの後ろめたさみたいなのもあるのか。
言語化ブームに全乗っかりしたムーブをする人たちのことは少し引いてみちゃっている。三宅香帆とか。正反対な君と僕に感じる違和感にも通ずる。
言語化することは素晴らしいけど、言語化だけが素晴らしく言語化さえすればOK、言語化したやつが強い、というような思想には、慎重な態度みたいなものが見えてほしいんですよね。そのいくさきは「はい論破」ですよ。
お笑い、特に漫才の笑いを言語化することを大衆に広めたのは塙さんの功績がかなりデカいと思う。その頃は笑いの裏側を話すことに芸人は忌避感が今よりずっとずっとあって、塙さんがそういう本を出したことがすごく衝撃的なニュースだった。私はめちゃくちゃ嬉しかったけど。
最近はお笑いに関わらず言語化というものがものすごくフィーチャーされるから、令和ロマンの登場と時代はめちゃくちゃ合致したなあという気がする。
私は脳内に溜まった膿を出す感覚で言葉を吐いていて、それをしないともう気持ち悪いんですよね。ある意味、仕方なくやっている。
でも私はおしゃべりというわけではない。刺激的なインプットが与えられたら永遠にそれについて持論を喋ることは多分できるけど、しない。だってそんなん聞いてくれないですからね、人は。興味ないんですよ。
私は興味あるんだけどなあ。なんかそこのマッチングできないの悲しくないですか。興味ないだろうなあと思ってるから喋らない、本当は興味あるけど、みたいな悲しい事実もあるんじゃないですか、どこかで!
で、私はもうある時からバーっと自分の気持ちや考えを喋ることをやめたんだよね。数少ない聞いてくれる友人にも、もうやめた。
本当はしたいけど。したいけどさ。仕方ないからこうやって一人で書いてる。喋るタイプでも書くタイプでもどっちでもあるというか、むしろ書くほうが優位だと思う。
うん…なんか切ないな。
いま、脳が活性化して言葉が次々に出てくるんだけど、仕事をしていると鎮静して、もう何考えてたかわからなくなって終わる。
仕事は鎮静剤ですね。それが嫌だなあと思うこともあるけど。鎮静の割合が多すぎて、あんまり心地よくないんですよね。
なんというかね、喋るとみんな、そんな考えないよみたいなこと言うんですよ。
いや私も考えてるわけじゃないですよ?と思う。私は立派な考えがあってそれを聞いてくれ〜!ってやってんじゃなくて、刺激に対して反応が言葉になって出てくるだけであって。その過程で考えがまとまるとかはあるけど。
言語化するとえらいと思われるんですよね。言語にしてるだけなのに。流暢性バイアスですよ。みんな気をつけて。