パラドックス定数
植村宏司/西原誠吾/井内勇希/神農直隆/横道毅/小野ゆたか
東京芸術劇場シアターイースト
作 演出 野木萌葱
演劇の閉じと開きについて考えることがある。同好の士に対して向けられた視線と、広く人口に膾炙するもの。
(もっとも製作に携わる方々は皆できるだけ多くの人に観てもらいたいと思っているのだろうし、そしてこんなことを考えている私は“広く人口”の意見を代表するものではなく、一介の偏狭な演劇ファンでしかないので、趣味嗜好を超えた結論を出せるものではないのは承知している。)
という前置き。
上演時に少し話題になっていた「骨と十字架」を先日の無料配信で見て、どこかで機会があれば一度くらい行ってみたいなと思っていたパラドックス定数さん。ゾルゲ事件という非常に興味のある題材でお芝居をやると聞いて、その“一度くらい”はまさに今回なのではなかろうかということで、池袋へ。
役者さんは、神農さんって骨と十字架に出てた方?というのと、花組芝居の方が客演にいるということだけ。
拘置所と思われる狭い部屋。簡素な二段ベットが2台と椅子、奥に鉄格子。部屋をぐるりと囲む廊下と、登るとも降りるともないような階段。抑えめな照明の中、男たちの会話で物語は始まる。押し殺すようなトーンの台詞も多かったけれども、全編を通して聞き取れないということはなかった。
ゾルゲが逮捕されたことを受けて、特高に出し抜かれた警察は、その諜報網の枝葉に連なっていたと思われる四人の主義者を拘留する。警察側の二人が行う彼らへの尋問と、その合間の口論や葛藤を繰り返しながら、物語が進んでいく。動きは部屋を出る/入る、歩く/止まるというシンプルなものが多く、文字通りの絵に描いたような“台詞劇”だった。
ゾルゲ本人を描いていないことは事前情報として知っていたけれども、想像していたよりも更に、組織の末端の人たちの話だった。劇作者の意図として、これを大きな事件として描きたくなかったそう(観劇後にチラシのメッセージを読んで知る)で、戦中史に名を残す諜報組織とはいえ、確かに枝葉はこんなものだったのかもしれないね。彼らの一人がいなくなったところで、歴史にさして影響はない。彼らの行動や情報が、実際にゾルゲに役立つと判断されたかどうかもわからない。ゾルゲや尾崎秀実がこの国に大きく枝を伸ばした樹の中の、ごくごく細い一枝。
ただその一枝一葉にもそれぞれの思想があり、理想があり、意志がある。
このお芝居に出てくる男たちを、日常を生きる一市民として描くという意図は伝わった。一方で、彼らがゾルゲとその向こうにある思想に託したものがわかりにくく、物足りなかった。内閣とか軍部とかに関わってる人を出すなら、もうちょっと踏み込んで語ろうよって思っちゃう。
でもそれを語らないのが作家の意図と言われると、仕方がないんだけど……。
それから、なぜゾルゲの逮捕がそこまでの大事件だったのか。ゾルゲがソ連に送った情報については最後に少し説明的に語られていただけに、道中がもう少しわかりやすくても良かった。ゾルゲ事件という史実を日常のサイズ感に落とし込むのは難しいのだろうか。
物語は枝葉である彼らの話だけではなく、ゾルゲや尾崎本人といった“幹”の部分をモノローグのように随所に差し込んでいた。そこがちょっと概念的というか抽象的な会話で(それもまた作家の意図なのか)、ここはもう少しピリついた感じがあっても良かったのではないかなあ。
もっともこのあたり、ゾルゲ事件を扱うお芝居と聞いたから観にきたよ、という私の立ち位置と、市井の人を描こうとした脚本との折り合いがつかなかっただけという気もする。
お芝居全体のテーマとして。まず、理想と信念についての描写が一つ。市井に生きる彼らを枝葉の活動家たらしめたものに、思想がある。その意志の強さがある。彼らの中に実は二重スパイとして主義者が集まる教会に潜入した男がいるが、彼は主義者の理念を唾棄すべきものとして嫌っている。彼自身は上司に対して崇拝めいた忠誠心を持っていて ー それは、どこか思想や信仰にも似ているのではないか。対象が神なのか、主義なのか、国なのか、あるいは人なのか。己の行動を司どる、その根幹にある心の在りどころ。
もう一つ。そういった思想ではなく、欲を行動原理とするものについても少し語られる。名声や功名心。思想に動かされるよりも欲に従って動く者の方が好ましいと語る男がいて、しかしそんな彼自身の根幹にあるものは欲ではないという背反がある。
それから、主義や主張や己の事績を“書いて残す”という意義について。劇中で、ゾルゲの逮捕が公表されるのかどうかが語られるシーンがある。それを受けて終盤、尋問の続く彼らの前にはノートとペンが置かれる。活動家としての彼らにとって、自白は裏切り。だが、同志ゾルゲや尾崎、宮城といった“幹”の部分の主義者が逮捕されて且つその活動や目的が表にならずに終わる時、自分たちの理想は、信念は、正義は、どうなるのか。隠し葬られることの罪。記し残すことの意志。そして枝葉の彼らはペンを取る。
実際の歴史とは、事件とは教科書に名を残すような人たちの話ではなく、日常を生きる市井の人々の思いの集積である。
私がお芝居から受け取ったのは、このあたりかな。
とにかく終始、劇作/演出家の“これを描きたい” “これを見せたい”という主張をガンガン感じる舞台だった。なんといっても台詞の応酬の、その“台詞”に、それこそ“意志”のようなものが全編を通してぎゅうぎゅうに詰まっていた。
なので舞台はシンプルなのに、総じて加算乗算のお芝居という感想を持った。
配信で見た「骨と十字架」も信仰と理想を語る会話劇だったけれども、こちらの方がすっきりと感じたのは、演出と劇作が違う人だったため、劇作家の主張に対して演出家(小川絵梨子さん)の解釈というフィルターが一枚挟まっていたからじゃないかと思う。今回は劇作と演出が一体なので、伝えたいものがダイレクトに投げかけられて、より密度が濃い舞台になっていた。
ゆえに終演後に、残念ながら私はこの劇作家さんに選ばれない側の客席だったかな、と感じてしまった。総じて興味深い観劇体験で、観に行けたことはとても良かった。でもこれは純粋に好みの問題として、私はすっきりと交通整理されたような舞台、減算除算の傾向を持つ方がはまりやすいという嗜好を持っているので。
でも、この濃度や密度が好きな人は、きっといるだろうというのはわかる。現に客席にそんな空気や集中力があった。(なんといっても観劇マナーが素晴らしかった。私の座った席は近くに人がいるストレスが全然なかった。ありがとう。)ならばこれからも、その同好の士に向けて、妥協なく描きたいものを詰め込んだお芝居を続けて欲しいと思う。
書き残し少々。
ゾルゲを題材にしているから諜報員というタイトル。と思わせて、途中で二重スパイの存在が明らかになり、ダブルミーニングだったことを知る。……というところから、最後にもう一段重ねてきたのは、上手いなあって。
それにしても骨と十字架のテイヤールに今回のゾルゲ事件、次回作がスプートニクと、この劇作家さんの選ぶ題材はちょっと困るくらいに悉く刺さる。