先日、夫が急性虫垂炎で緊急オペをして。
その後、まさか2週間もしないうちに娘が救急搬送される事態になるとは思わなかった。
深夜、熱を出して「熱い」と訴えてきた娘。
ああ、どうしよう、また熱を出してしまったのか…仕事の調整、どうするかなあ、やばいなあ終わったなあ…なんて考えていた私に、神様か仏様か、とにかく偉大な力が「お前、大切なものを見失うんじゃないぞ」と叱咤してきたんだと思う。
娘が発熱した1時間後、なんとなく眠れずにいたところ、娘の挙動がおかしいことに気づいた。電気をつけたら、娘がぶるぶるとけいれんし、失禁して、呼びかけてもこちらの声には全く反応しない状態だった。
どうしよう、と思った。このまま死んじゃったり、脳に障害が起きたりしないよね?大丈夫だよね?と怖くなった。泣きそうになったけれど、泣いている場合じゃなくて、とにかく娘を助けなければと、必死で救急車を呼んだ。
救急隊員が来ても、近所の大病院に救急搬送されても、まだ意識が戻らない娘。30分後、目を開けて少し反応を示したけれど、言葉が戻らない娘。
いろんな検査もしてもらったけれど、意識の戻りが悪くて、結局入院する事態になってしまった。
生きた心地がしない、とはこのことだと思った。
娘がこの世からいなくなってしまったら、私は何のために生きればいいんだろうと思った。それくらい、大きくて大切な存在なんだと気がついた。
最終的に、娘は無事に生きている。意識もしっかり戻って、今では冗談を言いながら、ふざけることができるくらいまで回復した。
主に健康面で散々な4月だったけれど、この事態を経験して気がついたことがある。
私にとって、一番大切なのはやっぱり“家族”だということ。
仕事での成功は二の次でいい。というか、成功できなくたっていい。なにより大好きな夫と娘が健康で元気で生きていて、日々笑って暮らせればそれでいいのだ。
足るを知れ、という思し召しだったのかもしれない。私は今、この手にもっているもので十分に幸せだ。だから、多くは望まないし、無理なスケジュールもこなさないようにする。積極的に撤退する。これまで以上に断るようにする。
もっと自分が大切にしたいことのために、わがままになってもいいのかもしれない。自分にとって本当に大切なものはなんなのか、改めて気がついた1カ月だった。