個人の身体や好みを尊重する態度が当たり前になれば、誰もが生きやすくなるのになと思う

最近、LGBTQ+に関連した仕事をする機会があった。

LGBTQ+について、私はもともと大学職員だったこともあり、学生と向き合う上で必要な知識だったから、以前から関心が高い領域ではあった。あと、大学職員時代にできた友人が、LGBTQ+について非常に高い関心を持って研究をしていたこともあり、彼女からいろいろな話を聞くにつけ、自分の中に知識がいろいろと蓄積されていったように思う。

で、前提知識はあったのだけど、改めて久しぶりにLGBTQ+の方が日頃の生活の中で「もやもや」や「嫌なこと」、「不安」を感じる場面について知ったとき。

LGBTQ+の当事者の方は、学生時代、身体的特徴や自身のしぐさをからかわれたり、服装について自分が好きなものを選べなかったり、「男らしさ」「女らしさ」を強要される場面だったり、「おかま」とか「おねえ」とかいう言葉で自身のことをいろいろと言われたりしたことに対して、「嫌だ」「不安だ」「なんで」ともやもやした気持ちを抱えることが多いのだという。

それを改めて知ったとき、「あれ、待てよ?」と思ったのだ。

私は、性自認が女性で、好きになるのは男性の、いわゆるマジョリティ側の人間だ。でも、LGBTQ+の方が「嫌だ」と感じる場面について、マジョリティ側の人間だけど、同じように「なんか嫌だな」と感じる。

結局のところ、この社会が、個人の好みや個性、身体的特徴に対して、個人の大切な心のパーソナルスペースに勝手に土足で足を踏み入れて歩き回ることを良しとしてしまっていることが問題なのではないか。

私は、実はかなり毛深い。でも、子どもの頃、特に中学生の頃は、親が「剃ったら太い毛が生えてくるから」と毛を剃ることを許してもらえなかった。ゆえに、足も腕も、毛がボーボーのままで学校に行かなくてはいけなくて、夏は本当に嫌いだった。

半袖で、生足を見せなくてはいけない夏の制服。

学校の階段で誰かとすれ違うたび、「見て、毛がボーボー、やべー」と言われて、陰で笑われて、あれは本当に心が削られる経験だった。

LGBTQ+の方が経験している苦しみや辛さは、私の“毛”の経験と同じだとはとても言えない。でも、ほんのちょっとだけ、その苦しみの原因が分かる気がする。

個人の身体的特徴を笑うのは、言語道断だ。何様の立場で、そんなことができるのか。

それに、個人の好みをとやかく言うのだって言語道断。今でこそオタクはひとつのカルチャーになったけれど、それが陰で笑われる時代もあった。

周囲と同じでなければならない、周囲になじめなければならない。そんな日本の悪しき村社会の文化が、私たちを非常に生きづらくさせている気がする。

これからの時代を生きる私たちは、そもそも人は、いくら家族であっても、親しい友人・恋人であっても、ベースとなるものが全く異なるという前提に立たなければならないと思う。

全く異なる個人だからこそ、相手の好きなものや身体的特徴、人と違う部分を「何で違うの」「同じじゃないから気持ちわるい」ととやかく言ってはならない。その違う部分は、その人の愛すべきパーソナリティの一部である。

そんな風に考える人がひとりでも増えたなら、LGBTQ+の当事者の方も、いわゆるマジョリティの方々も、もっと生きやすい社会になるのではないかと思う。

私の子どもには、まだ少し難しいかもしれないけれど、他者を尊重するということを少しずつ教えていきたいものだ。

@ichika61248
しがないライターをしています。