三砂慶明『千年の読書』で知った、アン・ウォームズリー『プリズン・ブック・クラブ: コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』を読み、作中の読書会の中で取り上げられていた、アヤーン・ヒルシ・アリ『もう、服従しない』を読み進めている。
「名誉殺人」の数について、オランダ政府もアムネスティ・インターナショナルも統計を取っていなかった、というエピソードを読み、(ここでは被害者が女性の場合を主に想定しているけれど)同じ「名誉殺人」という概念が出てきた、ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』を思い出した。民族も宗教も異なるけれど、概念には共通項がある。
また、アヤーン・ヒルシ・アリが父から拒絶されたり攻撃されたりする際、「父(もしくは父の大切にしているもの)を侮辱した」ことが理由になっていることが殆どだった。これも『千年の読書』をきっかけに読んだ、『夜と霧』に以下の記述があったことも思い出した。
殴られる肉体的苦痛は、わたしたちおとなの囚人だけでなく、懲罰をうけた子どもにとってすら深刻ではない。心の痛み、つまり不正や不条理への憤怒に、殴られた瞬間、人はとことん苦しむのだ。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』
「怒り」という感情は「本来あるべき状態との不愉快なずれがあるサイン」であり、「怒っている」=「困っている」ということだと、水島広子『大人のための「困った感情」のトリセツ』で学んだ。「不愉快」と感じていることは、「侮辱された」と感じることに近しい。
「侮辱」と「名誉殺人」。名誉殺人に近いものは、かつて日本にもあったのでは?各国・民族の名誉殺人について書かれた本はあるかな……と、ここまで考えて、受験や仕事上の必要性でも、誰かに強制されたわけでもなく、「知りたい」「学びたい」という欲求が、自分の中から自然に湧き上がっていることに気づいた。この感覚はひさしぶりだった。自分という人間を取り戻せてきたように感じたが、自分という人間の何か大切なものが奪われていた……正確には自ら放棄していたことにも、今ようやく気づいた。