1年前、事務所移転のタイミングで個室会議室を無くした。
僕は、個室会議室が欲しかったが、うちのカルチャーにオープンな環境を大事にするがあり、カルチャー雑談の流れで会議室を無くすことが議題にあがり、気づけば会議室がなくなってしまった(パーティション高かったのに・・・)
会議室が無くなった。
変化を述べよう。
うちの会社では会議の議事録をドキュメントに残す文化がある、ドキュメントになると、不要な情報はカットされるため、情報が整理され、受けやすい形に整理されて言語化される。会議の会話は生の声である。感情の機微や、声の大きさや間といった多くの情報が生のデータには入っている。それをノイズと呼ぶか、リソースと呼ぶかは人それぞれだろう。ただ、その人それぞれが好きに情報を取れる環境であれば、聞きたければこれまで削除されてきた情報にアクセスできる。
それによることがわからないが、会議室を無くしてから、社内に雑談が増えた。個室の会議室が無くなることで雑談が減ると思っていたが、増えていった。これは話し手のマインドも影響しているのかもしれない。会議室で雑談していると後ろめたいキモチになることがあった。密室でサボっている感と言うか。それがオープンな場で誰も聞ける場所で雑談するということは、これは大事な時間であるとまわりへの意思表示になる。
雑談は、何を言ってもOKで、新規事業は雑談が発想の源になることは多い。会議室で「飲食の課題で自分の最高な飲食体験」を話すと意見が出にくい。会議では論理は整合され、情緒は統御され、感情は抑制される(会議室マジック!)
雑談の場であると、「最高の飲食店体験とあまり関係ないかもだけど、僕は誰かが目の前でパフェを食べてくれたら、僕にめっちゃ心許してくれるなって思いますね」って話が投下され、「たしかに。以前コメダの打ち合わせでシロノワール頼まれたときは、食べながら話せるのか不安になったけど、まあ話せなかったけどさ」みたいな話に始まって、リラックス出来る場とはなんだ?メシの頼み方によるリラックス感ってあるよね?みたいな発散になり、そういう発散を通じて、アイディアが生まれる。
雑談で思い出したが、文化人類学者の松村さんの著書「うしろめたさの人類学」でエチオピアのひとたちは「こっそり裏でコーヒーを飲むのはNG」と読んだ。そんなことをしたら、陰で悪口をまわりから言われるらしい。エチオピアの人のカルチャーでは同じ時間をメンバーで体験をすることがとても大事とのことだ。そして長い歴史のなかで、他者とわたしたちとの繋がりはこういった時間の積み重ねとコミュニケーションのアクセス性、また見える化を通じて生まれてきたとのことだ。
たしかにこれってあるかもで、マンションの一室でやっているスタートアップはすごい一体感だったけど、資金調達をして、華奢なオフィスに移転すると、途端に意思疎通ができなくなるみたいなことと近いかもしれない。僕はコミュニケーションは深さよりも頻度派で、今後もゆるい共感の場作りを今後もしていきたい。