2023年-24年の年末年始は溜まったコンテンツを消化していた。読みたい本とインディーゲームの消化である。
ゲームについて話をする。
社会人で、人気ゲームの新作をクリアレベルで追えている人は皆無だろう。ゲームはインディーに開かれ、技術革新の波で、1アイデアでゲームを実装できる環境が出来た。数十年前は年1000本程度のリリースがすでに2023年はSteamだけで14532本リリースされている。僕らは、毎日寄せては返すコンテンツの波に晒されている。
毎日何らかのインディー、メジャーのゲームが発表され、それらをランキング形式や動画で紹介される。毎日プラットフォームではセールが行われ、いまゲームを買わないと損をするように購入を促進される。ただその数はあまりに膨大である。僕はすでにゼルダもピクミンもファイアーエンブレムの新作さえしていない。ゼルダをまともに遊ぶだけで100時間は掛かるという話だ。これはまだSwitchだけの話である。
ゲームを遊ぶのは楽しい。寝食を忘れてのめり込んでしまう。感情はコントロールされ、楽しみは各所に配備されている。ゲームの世界では、時間をかければ、成果を出すことは容易だ。なぜ失敗したのか?はすぐに理解でき、因果の結びつきは強固で、文脈の前後的関連性は明確だ。ひとつのマテリアルが、次のアウトプットに直結する。
チェーホフの言葉を借りるなら「誰も発砲することを考えもしないのであれば、弾を装填したライフルを舞台上に置いてはいけない。」ということになる。ゲームに何か出てくるなら、それは必ずなにかのために置かれている。もしくはトレードオフ。
ただゲームは楽しいか?の問いを別の問いに変えると、違う話になる。ゲームは幸福な体験か?と問われると、回答に悩む。確かに夢中で没頭は出来るし、やっている間は熱中できるんだけど、幸福かは分からない。自分が思う幸福な体験は、試行錯誤のプランを考える時間にある。こうしたら次はうまく出来るのではないか?こうすればクリア出来るのではないか?その試行錯誤の数が多いゲームは幸福なゲーム体験である。
昔の自分は、ぷよぷよで連鎖を増やすために授業中にメモで連鎖の手法を考えていたり、ピクミンでプラチナメダルを取ろうとピクミンたちの配置を考え続けた。そんな試行錯誤を続けたゲームは強く記憶に残っている。楽しかった記憶として。
すでに僕らは大量のコンテンツに囲まれている。ゲームだけじゃなくて、漫画でも、映画でも、ドラマでも、書籍までも入れると、人生何回繰り返しても消化できない量だ。僕らはそれらのコンテンツを目の間にして、呆然としてしまう。そしてコンテンツは常にコンテンツを消費することを求めてくる。多分そこに必要なのは、試行錯誤だろう。ゲームをやらされるんじゃなくて、能動的にゲームをやる。数値を増やす時間より振り返る時間が必要だ。
もう僕らは選択肢の是非を問うよりも、試行錯誤の質を問うべきではないか。それがコンテンツの波を前にし消費を求められる僕らのコンテンツへの立ち振舞いに思うのだ。ただ試行錯誤が多すぎるゼルダをまだ起動できないのは、いまはゲームの幸せより、惰性でゲームがしたい(シレンやっている)という理由である。