機会を作って美術館に行くことにしている。
毎日仕事をしていると、昨日の続きが今日で。今日の続きが明日である。毎日続くよ、どこまでも。の心境になりがちである。
そんなときはPCを閉じて、美術館に向かうことにしている。
1枚の写真に感化されること
美術館について、常設展の展示物を適当に見ている。その時の心境によって、何か心にふれる作品に出会う。
今回はとある写真が気になった。
女性と黒人が映っていて、黒人男性3人と女性が2人がベッドで寝そべっている写真である。
ひとりの女性は黒人の男性にくっついて、楽しそうに笑っている。もうひとりの女性はベッドに座り、タバコを吸っている。写真からは彼女の表情を読み取ることは出来ない。黒人の3人の男性は、1人は裸で、とてもリラックスした表情をしてる。黒人の1人は、写真用のとっておきのスマイルで、端正な顔立ちで笑っている。目を見ていると好奇心にあふれているようである。なにか面白いイベントがあれば、つい前に乗り出して参加するタイプのように見える。だけども、目の奥の少しの疲れがある。もう楽しんだあとという感じの目である。昨晩はとても楽しかったけど、ちょっとつかれたし、眠りたいなあといった疲労の色が出ている。ほかの2人の黒人男性は顔をこわばらせている。1人は場の雰囲気やこのコミュティに関心がないような顔をし、もう1人の男性は女性からジャレつかれているが、表情からは感情が読めない。写真を撮られることに抵抗があるのかもしれない。写真からは男女の青春の1枚のような構図だが、爽やかな印象は受けない、多くの男女にあまり人には言いたくない事情をもっているのような印象を受ける。例えるなら高校3年のときの夏休み中の息抜きで遊びに行った男女グループの帰りの雰囲気のようである。男性たちは、進学校で受験に向けて勉強しないといけないが、まあたまにはいいのかな?と思っていて、女性たちは進学予定はなく、卒業後はとりあえず地元のスーパーでバイトしようかなと考えている。男性たちは東京の大学に進学しようと考えている。その決定を彼女たちもわかっている。この関係が続かないことを。間もなくこれは終わるんだろうなという予感も。そんな雰囲気であった。
そんな写真をずっと見ていた。
写真のキャプションを見ると、沖縄の写真で、50年前の写真だった。当時の沖縄のアメリカと日本の緊張状態や個人では対処できない社会問題のひとつだろうし、そこの関係と環境に振り回された男女はそこら中にいたはずだ。自分でうまく制御できない欲求を抱えた若い男女たちが夜の盛り場で出会ってしまったら、どうなるのかの想像はつく。
彼、彼女は、それからの50年をどう生きたんだろう?
僕はたぶん、そんなことを考えるためにアートを見に行っている。それらの熱は一般論化を寄せ付けない。彼、彼女らの熱は、あくまで個に依拠した熱である。行き場の無い思いである。圧倒的に不安な未来に向けて立ち尽くす人々である。僕が自分が「誰でも自分の居場所が見つかる世の中にしたい」と考えるのは、こういった人たちの問題に取り組みたいからである。なんかおこがましいとも思うが、どうしても自分ではチャレンジしたくなる。これはオブセッションに近いのかもしれない。(御三家ではビリー・ホリデイだし、マーヴィン・ゲイだし、オーティス・レディングだし、ニーナ・シモンであり、何かに破れた人に心惹かれる)もちろん僕と彼や彼女の人生は時間軸がズレている。もう僕が彼、彼女たちの課題に取り組むことは物理的に不可能である。ただ今も同じような想いをしている人が居るはずである。現代のシリアスさもまた別のシリアスさがある。助けてくれるコミュニティの無い環境。誰とも深くは繋がっていない孤絶。
振り返ること
日々ビジネスをしていると、早急に原因と結果を結びつけたくはなる。前後的関連性を予想し、二項対立の構造を作り、わかりやすいフレームワークで物事を処理してしまう。楽だからである。アート見ることは、それらの構造化から離れる行為となる。
ゴッホの自画像の危うさと、大竹伸朗のスクラップブックの熱量と、ヨーゼフボイスがついたウソを安易に理解することは出来ない。それらは分かる分からないではなく、個人の熱である。ゴッホの自画像をクロニクルに眺めることで何を感じるか、大竹伸朗の異様な物量での作品を大量に浴びることで何を思うのか、それらはもしかすると、アナタが大切にしたいモノと紐づいているのかもしれない。
日々仕事をしていて、自分が何のために仕事をしているのか?を振り返るタイミングが必要である。自分の根源的な動機から振り返るには、たぶん論理から大きく離れる必要がある。
アーティストは1人で自分の中にある根源的な思いと、社会的な課題と、オリジナリティ(手段)の戦いをしている。起業家も、手段が違うだけであり同じ戦いをしているように思う。そんな過去長きに渡って、戦い続けたアーティストの熱を感じるためにぼくは美術館に通っているのである。