気分がほどよく沈んでおり、ひねもす部屋で過ごす休日に書くようなことがあるわけもなく…。それでも何かを書きたい気分ではあるので、覚え書きの意味も込めて、わたしが文章を書くときに日頃から気に掛けていること……というより、わたしはこういうふうに書く自分の文章が好きだよ~という話でもしようと思います。
まず漢字表記か、ひらがな表記か。文章って読むだけではなく見るものでもあるので、字面はすごく気にしています。
たとえば、「平仮名」と書くと硬い感じがするけれど、「ひらがな」とすると受け取る感じがやわらかい気がする。「やわらかい」だって、「柔らかい」よりも「やわらかい」と書いたほうが、ふにゃふにゃ感が増す気がする。あくまでも気がするだけなんですが、「眼差し」よりも「まなざし」、「容易く」よりも「たやすく」、「零れる」よりも「こぼれる」から伝わる感じをわたしは大事にしたい。そういうわけで、一人称も「わたし」を好んで使っています。
ただ、儘ならないことに、ひらがなにしてばかりいると別の気になることが生まれてしまうという…。
これは、文章とは読むだけではなく見るものでもあるという話に繋がるかと思うんですが、ひらがなばかりの文章って伝わる感じこそやわらかいものの、パッと見たときに読みにくかったりする…。絵本なら「そのとき ねこが くしゃみを した」と分かち書きをすればいいけれど、日記や小説でそれをするわけにはいかないし…。
なので、ひらがなが続いている部分には適度に読点を打つことにしています。「なのでひらがなが続いている」でもまったく支障はないけれど、あえて「なので、ひらがなが」としてみると、ちょっとは読みやすくなる気がする。
同じ理由で、熟語でない漢字が続くときも読点を打ちます。「今日私は家から一歩も出ませんでした」でもいいけれど、「今日、私は家から一歩も出ませんでした」としてみると…どうだろう? 別にそうでもないかも。その日の気分にもよるかも。
わたしは句読点を息継ぎのタイミングだと思っているので、ちょっとした一文でも躊躇なく読点を打ってしまうんですが、とはいえ多すぎかも!!! と頭を抱えるときが間々あります。うそ、いっつも抱えてる。
そういうときは、無理にひらがなにせず漢字を選んでみたり、表現を変えてみたり、てにをはを挟んでみたりすると好みの文章になることが多いです。たとえば冒頭の「気分がほどよく沈んでおり、ひねもす部屋で過ごす休日ほにゃらら」という一文。ひねもすって日常的に使う言葉じゃないけれど、「一日中部屋で過ごす」とすると漢字が続いてあまり好かないし、かといって「沈んでおり、一日中、部屋で過ごす」とすると、読点のスパンが短くて好かないし…という理由で使いました。
でも、こんなことにこだわらず、難しいことも考えず、ただ頭に思い浮かんだままを書き殴れた方がいいよなあと思います。ツイッターなんて140字しか書けなくて、だから句読点も省略しまくってよかったのに、わたしはそれさえ捏ねくり回した挙句、納得するものが書けなくてアプリを閉じるということを繰り返しており…。だから本当は書くことに向いていないのかもしれない。でも、向いていないからといって止められるものでもなく…。なにせ楽しいので。生き甲斐なので。
「生き甲斐というのは趣味ではないの。そうしないと生きていけない方向性を指すのよ」
イシュタルのこの言葉をお守り代わりに、わたしは明日も明後日も書き続けるのだと思います。というか、書きたい内容が頭の中にいっぱいあるんだよ。ちゃんと形にして、自分の書いた文を読んで、「これこれ! これが読みたかった~~~!」ってなりたいの。
本当に必要なのって、たぶん、それだけなんだろうな。