美醜の判断は、たぶん倫理的判断だ。なにかが美しいと主張するとき、それが人間を指していない場合、良いものであるという主張を含意していると思う。逆もまた然り。自然が美しいと言ったら自然は良いものだと主張している。
倫理的判断とすっかり地続きであるという意味において、美醜は客観的判断基準を持たない、と思う (もし客観的になるなら、たぶん別の名前が付く) 。社会性の都合、多くのひとが異口同音にこれは美しいと主張していればそれが客観性を帯びるような雰囲気が現れるけれど、本質的ではないはず。私には、そしてあなたにも、いつだってショパンの曲をけなす権利がある (けなすべきものであるかどうかは個々人が判断することだし、私はけなすどころか美しいものだと主張するに足るものがそこそこあるとさえ思っているが) 。
さて、この文脈において、ひとの顔を指して美醜を検討するのは、やや前近代的であるように感じられる。個人の尊重を基本原理とすれば、個人攻撃を臆面もなく行ってしまえば近現代社会のルールを侵犯することになるだろう。だからひとに醜いと言うことはできない。社会性によってこのルールはもうちょっと強固になる。
では、ひとの顔を美しいと言うのはどうだろうか? 社会性からするとこれはセーフだ。なぜなら、一応褒め言葉だから。褒めるのであればひとにどんな言葉をかけても良い、ということにはなっていると思う。しかし、社会性ではないところからすると、これは倫理的判断をひとにぶつけていることになる。
倫理的判断をひとにぶつけるひと、そういうものを他の例で考えてみる。社会性メッキをぜんぶ剥がしてみると、これはたぶん「お前は (この点において) 道徳的だ / でない」と主張することになる。……正直、これを主張するひとには出くわしたくない。道徳的判断の結果が一致する限りにおいては害も少ないのだろうが、不一致したが最後、かな~り嫌な状況になることは疑い難い。
まわりくどく言ったが、内省によれば、私はこのような理由によってひとの相貌に対する美醜の判断を口に出さないことにしている。そして、口に出さないようにしていたからか、あるいは元からひとの顔に興味が無いからか、ひとの顔を見てそれが美しいかどうかを判断する内的基準が無いように思える。この二重の理由から、「美女」と主張されるひとがあったとき、まずその「美女」主張に眉をひそめる上、内的にはその顔が特に判断されないことによってその発言まわりの全部が疎外されているように思う。
めんどくさい言い回しを使ったが、要するに、「美女」、これはなんやねんキショいな……と思っている。美女という語を使って私がそうならないのはたぶん美女と野獣かその言葉上のパロディの場合のみだろう。
ところで、私には公然と性癖だと言っている属性がある。天ク美だ。天才クール美少女の略だ。
そう、ここで「美少女」と言っているのだ。ちょっとダブルスタンダートの謗りを免れ得ない、と言われても仕方がなさそうに見える。一応言い訳をすると「美少女戦士セーラームーン」みたいなほぼ意味を持たない言葉として使われている、と言うことはできる。
でも、やっぱり天ク美は目鼻立ちが整っている方がよい (内的判断) 。これはどういうことだろうか。
もうひとつ、言い訳を立てておく余地ぐらいはあるだろう。つまり、天ク美は作者たる私によって公式に「美少女である」という定義づけがなされるものの、それを「美少女だ」と認識するのは私や読者ではなくて作中世界のキャラクターなのだ。私は文字媒体によって創作をやっているので本当に見てくれが良いかどうかの判断はけっとばしておくことができるし、もし視覚媒体であったとて、(真の) 顔の良さと表現上の慣習は別に関連が無い。すると、倫理的判断を私や読者はさておくことができ、その責任を作中世界にまるごと放り投げることができるようになる。便利!
とはいえ、書くときには私が作中世界のキャラクターの人格をエミュレートしてやっているものなので、本当に判断の責任から逃走しきれているのか、というとかなり怪しい。そういえば私が書いたやつで主要キャラに天ク美を美女だと言わせた記憶は……あんまりない。ということは、天ク美が美少女である必要は本質的には無いのでは……?
でも、圧倒していてほしいとき、あらゆる評価軸において優越していてほしいんだなあ、ぐらいの気持ちでやっぱり美少女の方がよいかもしれない。でも「美少女だ」と認めるのは個々人の主観であって、でも作中世界のあまねく主観がそう思っているのなら事実上客観と言えて……わからなくなってきてしまった。