目に見えるすべてのものは無常である。時間間隔を生活レベルからかっとばしてしまえば、宇宙すら死ぬ運命にある、らしい。熱力学を紐解けば、少なくとも現在もっとも整合性が取れる範囲において、すべてのものはエントロピー最大の状態に至って身動きが取れなくなると予言されている。エントロピーが最大の状態とは、要するに、宇宙の茫漠にごくうっすらとものが存在する状態であり、ほぼ何も無い虚無の広がる中と思ってもらっても構わない。その状態に至るよりも先に人類が滅ぶことにはほぼ疑いの余地が無さそうだけど、考えるだけなら自由だ。
広義ではものに入れても良いはずだけれど、少なくとも凡人の私の主観からすると、精神はものと別枠で捉えたほうが話がすっきりしている。だから精神についても言及すると、これはものよりもかなりわかりやすく無常である。自分以外の精神はものと区別が付けられないのでものにそう思うようにひとの精神にも一貫性が欲しくなってしまうものの、自身を顧みればそんなものは期待しようがないことは明々白々で、できることといえば精々が一貫性があるように欺瞞するぐらいだ。熱意は常に失われ続けるし、何も無いところからも燃え盛る。
五蘊とか言って原始仏教からまとめられている無常物は、だいたいこんなところだ。なんでそんなものを書いているのかというと、私が最近そういう本を読み進めているからでしかない。知識の開陳である。まあ私がこれを読めよと押し付けているわけでもなし、許してほしい。
ところで、私の過去の投稿をいくらか見返すとわかるかもしれないが、2024年に入ってから私は恋愛ごとについていくらか探索しようと試みた。とは言っても、マッチングアプリに多少の課金をし、会ってくれたひとが (1人だけとはいえ) あったので会い、そこで私の思う恋愛ムーブをやった。
いくらかの理解は得た。ただ、いくらかは依然として……というか、より一層意味不明になっている気がする。具体的には、なんで人は恋愛したがる (ように見えるひとが少なくともツイッター越しにいくらか観測できる) のかについてである。
もしかすると、そういう人が他者の精神に一貫性を求めているからなのかもしれない。一貫性があって、しかもその人に好意を示しているという状況があれば、それはなるほど良い音楽の中にあり続けるような快さがあるに違いない。
ところで、人間の精神には一貫性が無い。一貫性が無いのは自分も他人も同様なので、とりたてて「恋愛」と名付けて何かすることがあるようには見えず、そういった錯誤の下にだけ成立する関係なのか、という気がしてきている。
一方で、創作物中のキャラクターには無限の一貫性を持たせることができる。創作物中のキャラクターは人間ではなく、ほぼイデアだからだ。だから、創作物中ではたぶん恋愛が可能だし、それなら読んでいて理解が及ぶ。縁があったので3話までいま観ているところの「ちょびっツ」なんかはそういった方面からちょっと納得がいった。
もうちょっと拡張してみよう。人外は、人間ではないからそのフィクション性が明白である。ということは、一貫性が明白である。うれしい! だから私は人外が好きなのかもしれない。でも、むしろ創作物中の人間は一貫するということがわかった今、人間に回帰しても特に変わり無いのかも……。
キャラクターが属性を持つ、ということはとりもなおさずその属性について一貫するということでしかない。その枢軸の強力なることに心を震わせることは、少なくとも、気味の良いことだと感じる。