学園アイドルマスターがリリースされた。私は喜び勇んで篠澤広のプロデュースをやり、True End は解放条件が厳しいのでまだ見られていないものの、篠澤広で最終試験1位を取るなどしたのでまあよしとしている。VoDa 両方いい感じに数値高めるとラスト2ターンの自動攻撃の効率が良くなるしフィニッシャーがどっちに来ても対応できるので安定感が増すように見える。
ゲーム的な話はさておき、私が興味を持っているのは彼女の精神性だけだ。端的に言うと、私のリリース前解釈はそれほど的を外していないように思う……どころか、今のところ解釈を変更せずにずっと同じ理解を続けることができている。
具体例を示す。まず、この会話ログを見てほしい。ちなみに、これは最終試験に通過した後のコミュである。さしものプロデューサーといえども、彼女を褒めないわけには行かないので褒め言葉を示した、というところが文脈である。

完ッ璧に、もう、びっくりするほど、私の解釈そのままの挙動をしている。私が篠澤広だろう、もう。興奮してきた。
……ふぅ (ミラーリング) 。この会話において、彼女がどんな感情を表明したのか、わかるだろうか。そう、彼女はまさに、成功の喜びを表明したとともに、安直に成功し続けて抵抗なくひとびとの上に立ててしまう様子を幻視し、それをつまらなく思ったのだ。
一応補足しておくと、彼女にとって幸いなことに、そんなことにはならない。なぜなら、プロデュース開始時点の篠澤広という人間の身体は貧弱そのものだからだ。歌は音程もタイミングも甘く見て20点ぐらいだろう、当然ダンスなんか土俵にも立てていない、そういうぐらいだ。そんな人間が一朝一夕でまともになるはずがない。というか根本的に筋肉を多く付けられるような遺伝子をしているのかどうかが怪しい。なので、どんなにやる気を持っていようと、篠澤広、彼女は険しい山を登り続けることができる。
というわけで、あとの詳細は私の一週間前の解釈記事を読んでもらえばそこに篠澤広のすべてがある。明らかに自信過剰だが、そうなるのも致し方ないだろう、これだけ一致してしまったのだから!
ところで、以下には非難の言葉を書いている。読む価値は (上と変わらず) ほとんど無いので、非難の言葉を読んで気分を悪くしたい方以外はタブを閉じると良い。
さて、何を非難するのかと言えば、インターネット・わからず屋、すなわち篠澤広に対する無理解と雑な言葉使いで雑に彼女を押し込めようとするすべての勢力に対して、だ。特に具体的に言えば、彼女を「ドM」と称した先行プレイレポ及びそのライターである。
まずマゾヒズムというものは成功を喜ばない種類のものだ、ということに留意されたい。マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』を熟読するまでもなく、マゾヒズムは苦痛の中にいることそれ自体に良い評価を与え、苦痛から脱することには全く嬉しさを持たない。この時点で篠澤広は不当に「ドM」と呼ばれていることがわかると思う。
「低く評価する」ということがどういうことであるか、この記事のライターはそこに全く目が向いていないのではないかと思う。低い評価を下す、というのは明らかにそこよりも高い場所に標準的水準を見て取っているということだ。すなわち、前途が開けまくっているのだ。だから嬉しいのだ。お為ごかしめいて良い評価を下し、それがために進むべき地平の存在が見通せなくなってしまう、そういうことが嫌なのだ。だからこそ、辛辣な言葉を浴びせかけられることが反転して嬉しく思えるのだ。
彼女にとり、アイドル業への不向きに対する苦言は、彼女の人格をまったく脅かさない。たぶん場の量子論あたりが専門なのだろうが、彼女は弱冠14歳にして大学を卒業し、その後この初星学園高等部に入学してアイドルを目指している、という設定になっている――その専門分野とアイドル業は、まったく、これまたびっくりするほど、かけらほども、もはや同じ星の上に同時に起こっていることが信じられないぐらいに、関連性を持たない。
だから、彼女の人格の柱はアイドル業に無い。表現活動にさえ無い。その表現において問題外だ、お先真っ暗だ、と言葉をぶつけられたところで、何を苦しむ必要があるだろうか? 銀行マンがゲームをやってそれが下手だと言われたら何か人格否定になるだろうか? そんなわけはない。
つまり、これは否定を好んでいるように見えて、実際に彼女へは否定としては作用していない。実際、恐ろしくアイドル業まわりの能力が低いのは事実なのだ (もしこれを信じがたいなら、プロデュース開始コミュの歌の下手さを知っておののくがよい) 。従って、不当な悪罵ではなく、これは純然たる事実の指摘になる。理系文化文脈におそらく長めに親しんできたであろう彼女にとって、事実の指摘は本当に非難としてははたらかないのだろうと思う。理系はそういう傾向にある (これは私自身が理系だとはいえ理系一般に対して持っている偏見でもあるが) 。
以上を踏まえて、私はこのライターに対して2点怒り……もとい、疑団を抱えている。1つは、以上に述べた篠澤広の心性に対する考察をまったく行わず、ただ形式的判断によってその記事を書いたのではないかという思いだ。まあライターは小説家ではないから、これは仕方ない部分があるかもしれない。いやそんなことないだろ。
で、もう1つが特に印象を悪く持っている部分で、それを「ドM」とエンコードしよったところだ。ある属性だけで人が形成されているという幻想自体が土台噴飯ものなのだが、特にキャッチーな印象を付けて人を釣り上げるようなスタイルにさえなっているそれに、私は結構嫌悪の情に近いものを抱いた。「涙のような熱になる」の意味一つ取って解釈しろやこの [ここに悪罵を挿入] 。
何が最悪かと言えば、キャッチーなものはキャッチーが故に広まるからだ。もう二次創作では雑に篠澤広がドMとして扱われる未来が確定してしまった、と言ってもいい。[ここに強めの悪罵を挿入]。
ことのついでに運営にも矛先をちょっと向けておこう。一週間前の考察で「変人。」と篠澤広が紹介されていることに対してもキレていたと思う。「天才」「変人」「ドM」、どれでもいいが、そうやって一つの箱に押し込んで自身とは違うものだと、そうしてわかりやすくしてしまうこと、それに対してインターネット・ドロップキックを食らわせたく思っている。疎外するな。疎外するな!
私は精神を持つ。これを読んでいるあなたも、スクレイピングでなければ精神を持っているに違いない。そして、創作中のキャラクターもまた精神を持っている。
現実の人間を相手にするのならば、そんなにコストもかけていられないことのほうが多いだろうから適当に疎外して「あの人はそういう人だ」で済ませてしまってもいいだろう。というか人間は一貫性を持たないのでだいたいそんなもんで処理しておく方がいい。
ただ、ことに、この場合は創作中のキャラクターが相手だ。創作中のキャラクターはいくらでも精細であることができるし、一貫性も持つことができる。そのようなキャラクターをひとつ選んでよく見るということをするのだから、できれば、そうやって雑に突き放してやらないでほしい。
非難は以上だ。すっきりした。
さて、これから私はなんとかして学マスに潰されてしまった分の時間を取り戻すべく進捗を産まなければならない。頑張ります。うおお! 私が篠澤広だと思いこむことで圧倒的進捗を得るか……。