バイトで忙しくしていたらいつの間にか2月もだいたい半分終わってしまいました。怖いね。でも行帰りと休憩時間に小説を読むぐらいはでき、そしてそれがほぼ唯一の創作とのつながりだったので言い訳めいてこの日記が書かれています。
勧められた本はサマセット・モーム『月と六ペンス』と貴志祐介『新世界より』の2つでした。なお、この記事は勧めてくれたひとへの感想返礼をメイン目的としているので、まあまあネタバレを含みます。あしからず。
『月と六ペンス』について。これは画家のチャールズ・ストリックランドというキャラクターを、外側からいろいろと対比して見やる、そういう作品でした。たぶんそうして異質で異常なストリックランドに理解を示すようになる、みたいなのが道筋なんでしょうけど、私の場合は初手でちょっと共感を得てしまったので世間の感想とはだいぶ違いそうな気はしています。
冒頭において、「溺れているなら遮二無二泳ぐよりほかに選択肢は無いのだ、おれにとって絵を描くのはそういうことだ」みたいなことをストリックランドが説明するシーンがあり、私はこれに真正面から共感するよりほかになかったわけです。私の場合は描くのではなくて書く方ですが、とにかく今書かなければならない、となったことの心当たりはあります。時間スケールを瞬間レベルから引き下げて長期スパンにしてみれば、これはずばり今の私の心情そのものになります。兎にも角にも、なにかを表現することなしには存在できないという確信がある、ということに同意せざるを得なかったわけです。
チャールズ・ストリックランドにとって、絵を描くこと以外のすべてが些事だったのでしょう。私も表現者としては斯く有りたいと思わないではないですが、何分私だって煩悩にまみれた俗人ですから、そうもいかず。栄誉だってあればうれしいです。栄誉で腹が膨れるかと言うひともいますが、事実上膨れるのです。ものを食べるのが実際の肉体の維持のための営為であるのに対して、創作とか栄誉とかは精神の維持のための営為です。そこに大した違いはありませんし、精神の維持のための営為は人それぞれですが、それが何であったら高尚だとかそういうのもどうでもいいでしょう。チャールズ・ストリックランドにとってはそれは絵を描くことであったのでしょうし、私も部分的には創作活動がそう、というだけの話です。
このような理解に立つと、妻との平和を廃し、ストルーヴ夫妻に災禍をもたらし、ニューカレドニアに故郷を見出し、社会性を投げ捨てた対価か何かのように難病に斃れたストリックランドには、偉大な画家となったという後知恵があれば憧憬と憐憫が、後知恵を抜きにすれば嘲笑と共感が引き起こされます。たぶん、偉大さの向こうに突き放してやるのが、作者と同じ立場で見る方法でしょうか……と、岩波文庫版の巻末解説を読んで思いました。
『新世界より』について。なるほど、面白かったです。ただ、ちょっと冗長になっている部分が多いように感じ、そのへんが口に合わなかったのでそこで評価が下がっています。児童文学を意識しているのかな、とも。
作品は一貫して視点人物となる「私」、渡辺早季の語り口によって描かれています。後から振り返った手記という体なのでしばしば「この時はこう思っていた」「こういう予感があった」的コメントが挟まるのですが、これは効果として世界への没入から一歩引いてこの振り返った時点での主観まで下がらせることができます。これがやや頻繁にありすぎるように感じ、ちょっとな……もうちょっと圧縮できるんじゃないかな……という感に。バケネズミに関する言及はいい感じの情報量に見えたので、たぶん相性の問題です。
さて、悪口はこのぐらいで、この小説の白眉となる点、それを述べていきましょう。遠未来 SF ではあり、多少のポスカリ (ポストアポカリプス) 要素もあり、じゃあ社会が隔絶しているのか、というとそこは主題では無さそうです。なんなら「意図的に復元した」みたいな説明まで付けて現代現実に似通わせています。ではどこが優れていたのか、それは生物と特定の病気についてです。
本編には多彩な空想生物が現れてきます。バケネズミを始めとしてミノシロ、不浄猫、オオオニイソメといった生物とその生態および脅威に割かれた文量はかなりのもので、これらが世界観の豊かなバックボーンとなっています。よくわからないものの筆は乗っていそうです。そしてそういった生物の出現と、SF 的ギミックの根幹 (「呪力」) の接続がかなり強固で、 SF というよりはよく練られたファンタジー畑っぽい雰囲気があるな……と感じました。
特定の病気についても全く同様で、「呪力」の暴走である「橋本・アッペルバウム症候群」および制御機構の欠如である「ラーマン・クロギウス症候群」は、現実の病気としていかにもありそうに思えます。ちょっと思うところがあるとすれば、ラーマン・クロギウス症候群患者 (「悪鬼」) は (1) 呪力による殺人に対する強烈な精神的ブレーキを欠いており、(2) しかも殺人実行後の半自動自殺機構 (「愧死機構」) も欠いている、という2点によって大量殺人を引き起こすということになっていたと思うのですが、これに加えてさらに社会からの明らかな逸脱を可能にするパーソナリティ障害を併発する必要があるはずです。そこへの言及は無かったな……となっていますが、話の筋上では特に気にする必要は無いことでした。「悪鬼」として疎外しているあたりにケアの倫理の欠如を見出したりはできるかもしれませんが、倫理学とメタ倫理学はちゃんとやってないので言及は避けておきます。
総合すると、「私ならもっと上手く書けらあ」って感じの感想を得ましたね。これは単に傲慢やってるだけなので一笑に付しておいてほしいのですが、実際のところ状況に翻弄されることばかりで「私はどうしたいのだ」ということが正面に出てこないあたりはあんまり好みの文脈に乗らないなあという感がありました。一応フォローしておくと、最終盤、(重大なネタバレ) を焼いてしまったあたりは感情を強く汲み取れて美味しかったです。
さて、書き終わった時点で21時半になってしまいました。図書館への返却期限は明日なのですが、明日はバイトで帰りに寄りたくもないので今から返しにいかねばなりません。
天頂近くには星がたくさん見えますから、退屈はしませんね。それでは。