創作という語と、芸術という語がある。たまに同義語として使われる文脈があり、かなり混乱を招いているような感がある。というわけで、とりあえず紐解いてみよう。
前提として、創作も芸術も表現の下位概念となっている。表現はここでは極めて広義に取って、意図のない一挙手一投足に至るまで表現である、としておく。そうするのは、たとえばトゥルーマン・ショーにおけるトゥルーマンの存在そのものが表現になっている、という事実からつとめて何も除外しない方が好ましいだろうという思いからだ。トゥルーマン・ショーは結局俳優が全部やってるじゃないか、と思うなら適当なリアリティ・ショーに置き換えてもらっても構わない。
さて、その上で、まず創作とはなんだろうか。文字書きは創作だとみなされているはずだ。絵描きも当然そうだろう。では、翻訳は? 塗り絵は? このあたりはまだ創作性を十分持っているだろう。創作的である、というのは要するに選択の余地からいろいろと選んで組み合わせることを指す、と思う。であれば、翻訳であれば当然言葉の選び方や配列にも、一から文を起こすよりは自由度が下がってはいるものの、創作的部分が十分にある。塗り絵は色を選ぶという点において同様だ。
そこからすると、選択の余地がすっかり無くなってしまったならばもはや創作的ではあり得ない、というような結論が出てきそうだ。誰がやっても同様になる、「正解」のある組み合わせだけが許容されるようなものは、たぶん創作ではない。「正解」があろうとも不正解の組み合わせが許容されるのであれば、まあそこには広がりがあるのだけれども。
ということは、普通あんまり創作だと言及されないようなことについても創作だと思うことができる。たとえば、車の運転は創作的だ。速度の緩急や道の選択なんかにかなり自由度がある。料理の食べ方も創作であってよいかもしれない。個人の中に当然の「正解」があってその1通りしか行わないならあんまり創作的ではないが、焼き魚からどうやって身を剥ぐか、とかそのあたりには余地があると思う。
芸術の方にも目を向けてみよう。現代的な芸術の定義ならこれはわりと簡単だと思う。表現のうち、感情をいい感じにパッケージングしたものだ。パッケージングの手法ごとにいろいろな芸術がある、とみなされている。その手法を採ることに疑義が生ずる場合はあろうが、まあともかく、感情が封じ込められているなら芸術だ。たとえば、「スタバ」というキャプションとともに投稿されるラーメンの写真のツイートなんかは、明らかにちょっとした日常的感情を含んでいるので、芸術とみなしてしまっても特段損は無いと思う。もしあなたが形式の神聖性を崇拝しているのでなければ、そこに現代短歌や現代美術 (のうち、あんまり面白くないもの) との違いを見出す必要は無いはずだ。
以上のように創作・芸術を定義してやると、非創作的芸術および非芸術的創作という2つの領域の存在がわかる。前者は感情がただあるだけで作為的な組み合わせの無いもの、後者は純粋に技巧的であって感情を含まないもの、といったところになる。
最近のエーアイ絵は、この非創作的芸術だとみなすべき存在であると思う。創作と芸術との語をごっちゃにすると、出力された絵にはプロンプタの感情が (明らかに) 含まれているにもかかわらず (NSFW絵とかで暴利を貪ろうと思っているようなひとが出してくるものでもない限り、たぶんそのはずだ) 、創作ではない (※) という点の憎さから芸術でもないと攻撃されているように思う。権利周りがぶっ叩かれているのを一旦見なかったことにすると (いや見なかったことにしては何も進まないが、ともかく本題ではないので) 、これは初期の写真美術と通ずるところがあると思う。(※: 絵を「手で」描く行為と比べると選択肢の組み合わせが著しく小さく、従って創作性も著しく小さいので、事実上創作ではないとみなすことができると思う。塗り絵にバケツツールを使うようなものじゃないかな、という感じ)
翻ってみると、非芸術的創作は結構受け入れられている、どころかバズり散らかしている。たとえば、100円玉をすご~くリアルに写実的に描いてみせて万バズしているものがある。何を描くか、というところには感情的介在の余地はある。しかし、現実をそのまま引き写すなら写真でいい。それなら普通の写真美術になる。それをわざわざ手描きすると何が起こるかというと、芸術性はミリも増えないのに、創作性は爆上がりする。拡大写真で線の痕とかが一緒に示されているなら尚の事である (というか、そうしないと私は本当に何も凄さが感じられない。表現としての意図がわからなくて困惑しか残らないので) 。
要するに人が好きなものは創作であって芸術ではないし、まあ感情をわざわざ常に題材にする必要もないからそうもなろうかな、という気はする。