人には人の好きなものがある。それは、とりも直さずその人々が価値を認める大切なものだ。ある人がとても好んでいるものが別のある人にとって死ぬほどどうでもよいものであるということはあり得るが、それは特段気に掛けるべき情報ではなく、ただ価値を置いているのであればその心に従えば良い。
ところで、ありとあらゆるものに価値を認めることはできない。価値を認める、というのは要するに何か特定のものにほかのものには無い地位を認めるということであって、何もかもに価値を認めんとするとそれはすべてのものを無差別に扱うことになってしまう。
逆に、ありとあらゆるものに価値を認めないこともできない。ここで、「価値を認めない」は「価値を認める」の否定にはなっていないことに留意すべきだと思う。論理をやってるんじゃなくて日常の語を使っているので。価値を認めない、というのは通常の意味において他のものよりも低い価値しか持たないとみなすことだ。だから、遍く価値を認めることができないのと同じ理由でできない。
論理もちょっとやろう。ありとあらゆるものの価値を等しいと認めると、たぶん、私はランダムウォークを始めなければならなくなってしまう。今この瞬間において私はキーボードを叩いているが、突然ヘドバンしたり、突然扉を開けてドバイまで出かけに行ったり、かと思えばその場に倒れて眠りこけたりする、というのが本当に価値を等しく思ったときの行動だろう、たぶん。私にはできないことだ。
そう思うと、私は本質的には虚無主義の流行り病に罹ったわけではなさそうだ。何かには価値を認めていて、何かには価値を認めていない。世の人が価値をよく認めていそうな部分に価値を認めないからといって、何か大損をしているわけでもないし、全てのものに価値が無いかのような誤解をする必要も無い。
列挙してみよう。ゴシップを好む人は、たぶん結構な数がいる。でなければあれだけ週刊誌が無限に刊行されるわけも無いと思う。私にとっては端から端まで価値を持たないが、まあ、中吊り広告を見てちょっとムカつく以外のことで私に関わりがあるわけでも無いので、気にすべき由も無い。
恋愛を好む人は、たぶんもっとたくさんいる。悪趣味だとみなされている (ように私は思っている) ゴシップよりも、恋愛はあきらかに神聖化されているからだと思う。まあひとが幸福になっている様相のものなのだから特段攻撃する由もやっぱり無い。恋愛至上主義者 (「恋愛をやってないやつは異常者だ」などとのたまう種類の人間) は爆破するが (私怨) 。そこを除けば、私にとり恋愛をなんかどうこうする理由は無く、従って価値はそんな無いように思える。
一方で、こうして考えを示すことには楽しさがある。つまり私にとっての価値がある。楽しいことは良いことだ、ととりあえずは思う。
他にも楽しいことはいくらでもある。学而時習之、不亦説乎。そんな権威を引っ張ってきて威張る必要が果たしてあるかどうか、まあそれもまた私の楽しみのためなのでお目溢しいただきたいが。
私個人に限るならば、何が楽しくて何が価値深いと思うのか、それを木目を読むがごとくに見分けていくのが良いのだと思う。凡夫である私には、すべてが虚無だと思うことなんてできやしないので。