弁明 (3/14)

ikabomb
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自意識過剰を恐れずに言えば、私には、高校時代からの親友がいた。その親友は、3月11日から12日の深夜にかけて自ら世を辞することを強く示唆する言葉をツイッター上に残して、それから一切の更新をしていない。

私が親友を以て自認するのには理由が当然ある。私と彼とは高2のときからの友人だった。高校の特性上2年と3年のときにはクラス替えもなく、また堂々とゲーム類を持ち込んでも怒られないような校風だったので、何度もボードゲームのたぐいで遊んだ。冗談だって言い合ったし、数学やら物理やらに対してやいのやいの言うこともあった。それから、浪人期には連絡が途絶えてしまったけれども、1浪して入った大学の新入生ガイダンス後に学科も違うのにばったり出会って、それからはツイッターで連絡を取り合っていた。顔を合わせるたびに冗談を言い合う関係は続いていたし、インターネット越しとはいえ遊ぶことだってもちろんあった。

だから、彼の人格も、私は当然熟知している。

彼が自死を図ったのかどうか、確実な証拠は何も得ていない。彼の家庭環境のことをわざわざ問いただしたこともなければ、親同士が懇意なわけでもない。大学も今は春休み中だ。どうやら、まだネットニュースにもそれらしきものは出ていないようだ。

それでも、親友として、私は断言できる。彼は自殺した。少なくとも、それを手際よく試みた。そうに違いない。こんな大それた断言、外れてしまえばいいのに。もし今彼がのこのこと出てきて「や、服毒なんてしませんが……w」みたいな顔をしてくれるのであれば、親友なんていう称号は喜んで投げ捨てよう。

思えば、私と彼が出た高校自体がそういう性質を纏っていたのかもしれない。真面目で世の一般からすれば高い能力を持って、それでも俗世を波乗りして憚らないほどに器用でも擦り切れていたわけでもなく、私はたまたま生来の図太さを持っていたから良かったものの、憐れな彼は自身をこの世に存在させ続けることに耐えられなくなってしまったのだ。

果たして私は彼の苦痛を取り除いて、彼を無に還させないため出来うる限りのことを為したと言えるのだろうか。否である。

2月25日およびその前日、彼はやはり自死を図っていたようだ。正確に言えば、私がその状態を認識したのが2月25日で、その前日は偶然がために辞世の延期がなされていた。だから、私は泡を食って私がどう思っているかをしたため、彼に送りつけた。その文書はこの記事の下部に添付してある。少しは彼の心を動かせたようだったが、結局はその役目を果たし得なかった。

彼が死の淵へと歩みを進めているのはわかっていたのだから、その一回で満足せず、来る日も来る日も思うことを届け続けていたら、あるいは違っていたかもわからない。ただ、私はそうしなかった。

後悔ではないと思う。彼が死を選んでしまったことで、私が嘆き悲しんでいるのは全き事実だ。バイトの帰り道に、そうせずにはいられなくなって、電車中でこの文章を書いている。涙と鼻水をばらばら出しながらだ。そのぐらいの痛みがあるということのほかに、もう一つ、私は内面に従わなければならないものがあった。それがこの弁明の本題であって、自由意志への信仰だった。

誰も彼も、幸少なからぬべきであって、苦の多からぬべきだ。そして、だれかに、とりわけ世に強いられて幸少なく苦の多いひとがあれば、それは許しがたいことだ。だから、できる限り、世の人々は己自身の人生を己自身の手に取り戻すべきだ。己が決断で苦しみを得ようとも、それはまた因果のすべてを手中に収めていて、また楽しからんとぞ思う。

ところで、万人が共有する人生最後の一場面がある。それは死だ。だから、死に方を自ら決断できる人生は、少なくともその最後の一場面において幸いだろう、と私は確信している。老衰でもいい。飛び降り自殺でもいい。不慮の事故だって覚悟が済んでいるなら問題とならないし、即身仏なんかこの極北にある。

私は、だから、彼が自殺を試みようとしていると知っても、自殺その事自体を否定することだけはできなかったし、今もできない。

人生の旅路をどこで終えるか、そのことを確かに定めて実行に移した彼は、間違いなくこの自由意志の意味において、最期に幸いだったことと思う。だからといって私が泣き腫らす涙の量が減るわけでもなければ、この記事を書かなくてもよかったことにすらならない。

願わくば、彼を苦しめる冥界の、来世の無からんことを。

願わくば、彼が幸福なる無の中に沈まんことを。

2024年3月14日21時12分、元親友、イカ爆弾より

付録 (「無題」、2024年2月25日)

この文章は、やめろとか考え直せとか言うためのものではない。そんなことを言う権利は私には無いからだ。人の生き死には自身で決定できるべきで、人が本心から死を狙っているのなら、私はそれに従うよりほかにない。

じゃあ、この文章はなんなのか。追悼文みたいなものだ。まだ死んでないんだから追って悼むっていうのはおかしいが、死んでしまっては伝えられないから、まだ生きているうちにと思って今急ぎめにキーボードを打っている。後生だから、最後まで読んでほしい。できるだけ短く纏めるつもりだから。

私は、あんまりまめにひとのSNSを見たりする方ではない。だから、君が (「君が」なんて呼んだことは一度も無いと思うが許してほしい) 、どうやら自死の計画を進めているらしいこと、それを一度延期したらしいことを知ったのは今日になってからだ。もっと言えば、某ツイートにいいねを付けた5分前ぐらいだ。何度か君のツイート群を見返して、見返して、ようやく悪い冗談かなにかではなく、かなり本気そうだということが腑に落ちたころには、直前まで私が縮小の方でなにかうだうだツイートしていたときに持っていた感情は吹き飛んでしまった。私が社会と格闘しているふりをすることなど、些末そのものだ。

初めには、私が覚えた気持ちは心配とかそのたぐいだったと思う。何も考えずに感情のまま「大丈夫?」とか人を気にかけている風な言葉を出す、そういうやつだ。それから、もし君が本気なら、どうあっても止める力も権利も無いことを思い出した。決心してしまっているのであれば、私にとって、これは君が死ぬまでの時間がいくらか確定したようなものになる。それで、今はその死を思って悲しみの中にいる。泣き腫らしてすらいる。冗談だと思うなら、顔写真を送り付けてもいい。まだ目尻が赤くはなっていないが、眼が充血してそのへんに涙が少々残った成人男性の顔をお見せできる。私は本気だ。

もし私が自意識過剰なのでなければ、私と君は親友だと言って構わないと思う。大学に入ってからは会うことも減ってしまったが、インターネット越しならたぶん健在だ。それに、思い出ならいくらでもある。高校の教室ではカードゲームを何度もした。ティンダロスの猟犬が鋭角から何回飛び出したか。インターネットミーム (社会性に合う表現) も無限に擦った。これはみなまで言うまい。それから、一浪したはずなのに大学入学直後のなにかのガイダンスの後にばったり出くわしたときには、世が変に面白くできすぎているぞと思った。私がカスみたいな浪人期を終えて結局不本意入学したのに気分を上向かせられたのには、間違いなく君の寄与分がある。

そうしていくつもの楽しい記憶と共にある君が、いま、自ら命を絶とうとしているという。これほど悲しいことはない。本当に無い。いま机の上にあるこのティッシュの山は、画面を見て呼吸をするために涙を拭いて鼻をかみ続けた結果のものだ。

それほどまでに悲しむ人がいる、ということ、それを死んでしまう前に君に伝えたかった。

繰り返すが、私には君の決断を覆す力は無い。だから、これ以上に差し出がましいことは言わない。

ただ、私は君を嫌ったりはしない。

月並みだけれど、もし私にできることがあるなら何だって言ってほしい。 私は生きて、図々しくも表現をする。その思考の中には、できれば君の自死が無いとうれしい。

2024年2月25日21時22分、親友、「イカ爆弾」より

@ikabomb
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