最近私ははイキリオタクしたいがために『饗宴』を読んでいる。プラトンのやつ。知らない漢語がときおり顔を出す他は思ったよりも随分平易で、ただ論理展開には意図的にトラップがこしらえてあるのでトラップ位置を初見で判別できるように読むのはわりと厄介だという感じ。鵜呑みにする分にはわかりやすい文章なので、まあ古典とはそういうものだと思って無批判に読んでもいいのかもしれない。
『饗宴』は、古代ギリシャにおける愛の神 (?) とされるエロースについてを主題としている。伴って愛とは何であるかが主張されていて、枢要を抜粋すると「自分の持たないもの、もしくは持っていたとして将来無限に保持し得るか定かではないものを追い求める心」あたりが主張されている。この文脈において智者 (おそらく大賢者よりもさらに優れたものが想定されていて、六神通クラスのものを得ている存在、端的に言えば神々の、特に知性について注目したものだと思う) を追い求める存在が愛智者 (フィロソフォス) だとか。
これとは関係なく (本当に独立かというとそうでもないが、少なくとも文脈を接続する必要なく) 、私は私で美しさについてのちょっとした私見は持っている。ちょっとした私見、というのは「美しさとはこれこれである」という形で提示することはできず、もうちょっと弱い言い方しかできないからだ。そのうちの一つとして、「機能は美しさの中でも最大の効力を持つ」というものがある。
どちらかといえば、たぶん、「機能を阻害するものは醜い」と言ったほうが早い。あと見た目から期待される機能が果たされていないのも個人的には気に食わない (インテリアとしての洋書、洋書が印刷された壁紙、それが切り取られて額縁に収められたもの、そういった無限後退とか……) が、ここでは追求できるほどの屁理屈が用意できていないので見なかったことにしておく。
して、機能が阻害されるというのは、例えばその色を使いたいがために背景色と文字色のコントラストをぜんぜん付けないとか、ほとんど似たような響きの名前を物語中で複数人に与えるとか、そういう話になる。本当はここで物理的なものについて言及したかったものの、迂闊に言うには私はあまりにも実際のデザインに疎いのでやめた。そういうのは褒めるときだけにした方がいい。
このとき、機能を阻害せず、むしろより洗練した形で提示できるものがあれば、それは美しい。登場当時の iPhone とかだ。ただ、現実に対するソリューションのたぐいは真似できてしまうので、そのうちそれが当然になって美しさは逓減していく。ままならないものだ。
ところで、我々が扱えるのは現実世界だけではない。ここで言及したいのは、ゲーム内世界における「機能」だ。ゲーム内世界は現実世界に似せなくてもよい。これが意味するところとして、ゲーム内世界には現実世界とは切り離された「機能」が存在しうるということだ。それどころか、前提をごっそりとすげ替えることでぜんぜん別の「機能」を果たせるように組み替えることだってできる。
現実世界の要請によって考えると、黄色いブロック (1辺1 m ぐらいの立方体?) を突き上げて叩くことによって物を取り出す仕組みを用意しておく必要はぜんぜん無い。素直に地面か机の上に箱を置くべきだ。ところが、そのゲーム内世界においてはジャンプが主要な動作となっている。というか初代だと左右移動とジャンプとダッシュしかできない。だから、その限られた可能な行動の中での合理性がそこには生まれている。現実世界で指で掴んでひねることによってペットボトルのキャップを開けるようなものだ。
あんまり具体的には検討していないものの、これは相当に広く示唆を与えてくれているように思える。ゲーム内世界が創られたあとにそこに機能的に美しい配置は、としても良いだろうが、逆方向にもできるはずだ。「逆方向」のものが成立したら、それはたぶんゲーム内のメインギミックになれる。ゲームの面白さの中心部分にもなれるだろうし、それがウケれば大ヒットだ。
そういうことを「ビブリボン」なるゲームのチュートリアル動画を見ながら思っていた (日記要素)。