鳥山明先生、突然の訃報(発表)から1日が過ぎて、ヨノナカはいくらか落ち着きを取り戻しつつも、まだ悲しみの余波の中にいるご様子。マそりゃそうだ。
※※※ 尚この記事は、お亡くなりになった鳥山明先生の作品を振り返ったり、偉大さを確認したりするようなアレではなく、氏の訃報を受けた自分がなぜここまでびっくりし、ショックを受けたのか? という超個人的な疑問を掘り下げていくだけの内容です。その辺に全くご興味のない皆さんも是非最後までお読みください。たとえあなたに何ももたらさないとしても ※※※
自分も、訃報を知ったとき結構なショックを受けたうちの一人だが、正直に言って、ショックを受けている自分に驚いた。そこまで大きなショックを、今自分が受ける理由が思い当たらなかった。
どんな人物であれ、年のいった人が亡くなるのは致しかたないことだと分かっているし、鳥山先生が……まだそこまでではないにせよ……それなり以上の年齢に達していることはなんとなく推測もつく。だから、これまでの例に照らせば、「あー、お亡くなりになったのかー」くらいの反応で終わったって、自分的にはなんら不思議はなかった。
それが、思いのほか大きな衝撃を伴って自分の胸を叩いたことに、驚きと疑問を感じた。なんで自分はこんなにショックを受けてるんだろう? という。
誤解を恐れずに言えば、いま現在の自分にとって、鳥山先生とその死はそこまで大きくて直接的な影響はない。自分は、先生がいま現在定常的にリリースしている作品があるかどうかも知らない。いま住んでる部屋に先生のマンガはないし、立体物も映像コンテンツもない。しいて言うなら『ドラクエ』過去作があるくらいだ。幼い頃に触れた作品の思い出や影響、リスペクトはあるにせよ。
「幼い時分に刷り込まれた作品の造り手だから」というんであれば、志村けんがコロナで亡くなった時も同じくらいの衝撃を受けていても良さそうなものだ(こう書いたことで、志村けんが死んだとき今回ほどショックを受けなかったことがバレてしまうが、実際その通りである。だからといって彼の死を貶めるつもりもないし、そうすることにもならないだろう。ただの事実である)。
冷静に振り返ってみると、「鳥山先生の最近のお姿や直のオシゴトを見てなかったから」ではないか、と思える。年を経た姿とか、なんかビョーキしてるらしいという噂とか、最近の執筆作なんかを見ていて、その存在と、年を経ていること……つまりは彼に流れる時間の経過を感じていれば、あーそうなのね、と思えたかもしれない。
2次利用作品としてのアニメやゲームはあるけれど、言ったってそれらはヨソで作っているものであるし、「監修」などのカタチで関わっておられるとはいえ鳥山先生の今であるかどうかは感じ取り難い。
だからたぶん自分は、鳥山明先生のことを「ずっと昔のまんま」だと思っていたんだと思う。時間を止めた、昔のままだと。だいぶ、死から遠い存在だと思っていたようだ。たまに見かける作品も、ホント昔のままだったしね。その辺のコトは、昨年みた『SAND LAND』の感想で書いた通り。
▼40年の時を経て、あの日の気持ちは生きたまま昔話になる ~映画『君たちはどう生きるか』『SAND LAND』感想 -更新第1532回-
それで意外だったから……思ったよりびっくりしたんだろうな、というところ。マ、だからなんだってハナシなんだけど。すごいびっくりしたんですよね二重の意味で。
あとはまあやっぱり……思ったより、自分の土台の大部分を占めてたんだな、ということは実感した。その上に更に色んな地層が積み重なってはいるけれど、一番底の方の基礎の基礎、地球で言ったら外殻の部分ぐらいの何割かを、鳥山先生の成分が占めているような感触を覚えた。
いやあー……ダメだね。その方が亡くなってみないと、そういうことを考えないというのは。
ビックリしたのは世間の皆さんも同じみたいで……っていうか、オイサンよかよっぽど強く、大きく、深くビックリし、ガッカリしている方々が大半だったようにお見受けする。まあそうでしょうね。オイサンら世代というのは、鳥山明作品……『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』というのは、毎週当たり前に流れてきて軽やかに消費するものであったから、言っても、いまみたいに、そんな真正面から大真面目に受け止めるようなものではなかった……んだと、オイサンは思っている。あとからその偉大さに気付いて再履修した人とか、元からそのすごさに気付いて珍重していた人もいただろうけど、言ってしまえば「スゴ目の流行り物」だったワケで、だからこそ大きく重くもあると同時に、だからこそ軽いモノでもあって、そのどっちとして受け止めるかによって、土台加減は人に寄ったと思う。オイサンは軽い方だったんだな。
いまはホラ、長い時間続いてきてしまった、超大家の超世界規模の、超作品として存在しているから、入りからして「スゲーもん」だと思って、皆さんご覧になるじゃん? ある程度。たぶん。『ガンダム』と一緒でさ。
話がちょっと逸れたけど、マそんなことだからヨノナカの皆さんの悲しみよう・落胆のしようは、オイサンの想像以上でした。藤子・F・不二雄先生が亡くなった時より、瞬間最大風速はスゴかったように思う。だから、「あーみんなこんなにびっくりするんだ」ということにも、ちょっとびっくりしていた。
そうねー、藤子不二雄先生が亡くなった時も、オイサンは今回ほどショック受けなかったなあ。やっぱり何か、今回は本質的に違うのかなあ。
時間が少しだけ経ったことで、流れ込んでくる情報の熱狂ぶりはかなり落ち着いた感があるけれども、巷に漂う喪失感はいまだ大きい。
近親者やオシゴトで直にかかわる人たちを除けば、ヨノナカはじきに、普段通りの日常に戻るだろう……表面上は。一般的な関わりしか持たない我々が次にこの喪失を実感するのは、そうした「定常的にそこにある筈の彼の痕跡がない」ことを目の当たりにするタイミングだろう。例えば、週刊マンガ誌にマンガが載らないとか、イラストやカットが載らないとか。自分の場合、たぶん……現在制作中と言われている『ドラクエ12』が出た後、次回作が作られないことが決定するとか、作られるにせよ絵が変わるとか……現在の進み具合次第では、もしかすると制作中止だって、十分に考え得るように思う。それはある意味で、日常を陰で支えていた柱か土台、マイニチの前提のようなもので……それがなくなったことを、皆、意識してか無意識にか、知っているんだと思う。
だって、何か知らんけど、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとあったんだもんね、『ドラゴンボール』。30年くらい、ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと。もっとか? 手を変え品を変え、ではあるけど。自分が『ドラゴンボール』の劇場版を見に行くようになったのは『復活のF』からあとで、また身近に感じ始めたのはその頃からだけども。
『ONEPIECE』の尾田栄一郎先生が寄せられていた追悼コメントの中で、「抜けた穴が大きすぎる」ということばがひどく印象的だった。これほど、いまの世の中が感じている状態を言い表した言葉もないように思う。足元に深く地面があるとすれば、大きなひと固まりがゴッソリ抜けて大空洞ができた……んではなくて、広く分布していたある成分の土や石がスッと溶けてなくなってしまって心の基礎にもの凄いスができたような、どエラい骨粗鬆症みたいなことになっている感じを想像する。
喪失感。ひと一人の死に、ここまで大きな喪失感を覚えるのは、声優・松来未祐さんの訃報に触れて以来だ。彼女が亡くなったときには、世界から色のレイヤーが一枚失われたように感じ、その感覚は今でも折に触れて繰り返されている。いま自分が生きているこの世界は、松来未祐が失われたもう一つの世界線なのだと、今でも感じる。恐らく鳥山先生の死も、それと似た世界認識を、今後の自分にもたらすことになるのだろうと……あの瞬間の衝撃の大きさと今の状態から推測している。
ねえ。
本当にたくさんの人が、鳥山マンガの何かが好きだった、鳥山マンガで何かを知った、鳥山マンガを追いかけた、鳥山マンガがあったからここにいる、みたいなことをもう数えきれないくらいSNSで語っておられて、あーそりゃすごい影響力だったよなあと改めて思っていたんだけど。
ねえ。そういう風に呼ばれることをご本人が好むか好まないか知りませんけど、そういう、色んな人の前を行ったり、後ろから押したりしてる様を実感するにつけ、やはりこう、「マンガ家」というお仕事の皆さんは、「先生」と呼ばれるに値する方々の群れなのだと、ホント心から思いましたよ。すごかったですわ。
マそんなんで、上でも書いた通り、そんな今更、自分から語ることなんかないのでこれで終わりにしますけれども。
……いやー。やっぱ突然でびっくりしました。カッコイイこともウマイことも、皆さんが言ってるからシメの言葉も思い浮かばないけど、この言い知れなさが大きさそのものだったんでしょうね。
ご冥福とか、お疲れ様とか、彼のアタマの中がそんなスケールに収まらないのを垣間見てきたから、何を言ってもさらにまるっとその上から飲み込まれてしまいそうで怖いです。私たちはまだまだ、鳥山明の頭の中で遊んでいるだけのような気がする。そんな先生だから、死なないと思っていたのかもしれないなー。
得体が知れねえや。