パリからスイスへ

ile
·
公開:2024/7/6

今日は移動のいちにちになる。まだうす暗いパリの街を歩くと、角に警察官が集まっていてぎょっとする。しかし事件ではなくたんに朝の準備をしているらしい。手の紙コップから湯気を立たせつつ、楽しそうに会話している。

バスに乗り、リヨン駅を目指す。途中、すれ違う車には憲兵が目立つ。早朝は彼らのような人々が動き始める時間なのだろう。

駅はターミナルが3つに分かれており、まったく構造がつかめない。assistanceのカウンターに行き、pardon、TGVはどこから? TGVはたくさんある、どこ行き? Zurich。ちょっと待て、わかったdeuxだ。そこをまっすぐ、建物のなかに入ってすぐ右折。着いたら案内板を見てホームを探せ。ありがとう!

café viennoisの買ってホームへ。仏語の教科書で見た車体がそこにある。乗りこんで少し緊張していると、音もなく走り始める。

TGV。新幹線よりも圧倒的に静かで揺れない。途方もない平地を走っていくことも関係しているとおもう。小麦畑、風車、朱色の屋根。

通路を挟んで反対に座っているアラブ系の男が車掌ともめている。チケットを買ったと言っているが、それは無効だと反論されている。けっきょくクレジットカードで払う。彼は怒りを吐き出すためか、手を叩き、スマホから大音量の音楽を流し始める。車内がメロディでいっぱいになる。しばらく続いたものの、車両の後端に座っていた白人の若い男が耐えかねたらしく、音量を絞れと彼を注意しにくる。彼はめんどくさそうに音量を下げ、カバンから出したちいさなハサミで爪を切りはじめる。満足そうに両手を眺め、彼は眠る。つられて眠る。

つぎに着くのはBaselとのアナウンスで目覚める。フランス、スイス、ドイツ、3カ国の境界にあたる街だったと記憶している。山がちになってきた。

車内には大型荷物置き場が二箇所ある。片方は入口付近、片方なら車両中央やや後ろにある。金属製の棚でできている。私は流れで入口のところにキャリーケースを置いており、ちょっと危なくないか? 盗まれそうだなと考えていたら、途中の駅で降りていった高齢の男性がチェーンのようなものを棚の付近で外していた。おそらくチェーンで棚の柵とキャリーケースの持ち手をくくりつけていたのだろう。自転車を歩道の脇に駐車しておくのと要領は同じである。そういう手があるのかと感心する。つぎの旅行ではああいうものを持ってきたほうがいいかもしれない。

Baselは巨大な駅だった。多くの人が乗り降りする。私の席はボックスで向かい合わせになっていたのだが、目の前に白人の女性がすわる。ドイツ語で話しかけられ、sorry わからないんです、英語かフランス語でも? と伝えると、yesと線路が切り変わるみたいに。

彼女は炭酸水のボトルをこちらに差し出し、くるくるとまわす仕草をする。どうやら固くて開けられないから開けておいてほしいらしい。もちろんと返し、吹き出さないように慎重に開ける。ありがとう。ぜんぜん問題ないよ。

樹形図のような線路には大量の貨物列車が待機している。どれもカラフルに落書きされている。

スイスに入ってから、川がときどき見える。山間だから、川に沿って家が集まり、町になり、線路が通されている。

さっきまでアラブ系の男が座っていた席には若い2人組の白人が座っている。ドイツ語で熱心に語り合っている。おそらく音楽の話だ。2人ともなにかしらの弦楽器を持っていた。ときどき聞き覚えのあるメロディが口ずさまれ、ショパン、チェロ、タクト、あ、それはわかる。

緑がほとんどを占める景色のなか、真っ赤なスイス国旗が目を惹く。気づいていなかったけれど、どうやら電車が遅れているらしい。

車内アナウンスの言葉の順が変わる。さっきまで仏語、独語、英語の順だったのに、いまは独語、英語、仏語。

TGVのトイレは飛行機についているものとよく似ている。鏡を見て、ふと自分の目が黒いなとおもつ。髪色を抜いているせいで余計に目立つ。目の前にいる彼女の目はうすいブルーだった。そういえば日本語には目の色を変えるという慣用句がある。ここではどのように響くだろうと考える。

雲がリボンのように延びている。こんなふうにメモ的に、自己検閲をゆるくして外国で文章を書いていると、ひどくありがちで、理性ではわかっているとあしらっていた紋切型と差別が、何食わぬ顔でじぶんのなかに居座っていることに気づく。

チューリッヒに着く。まず空気がおいしい。パリとは雰囲気がまったく異なる。水がきれいで、家のデザインがかわいい。水色や黄色などカラフルな色使いだ。シルバニアファミリーのミニチュアにでも閉じ込められているように感じる。

コインロッカーで10フラン。いま日本円にしておよそ1800円。パリのブラッスリーで出会ったラオスの彼も注意してくれていたが、なかなかの物価だ。

かなり起伏の激しい細い石畳を抜けて、リンデンホフの丘に。チューリッヒの中心部を見渡す。天気に恵まれているのもあるだろうが、本当に鮮やかな景色だ。

丘の敷地内巨大なチェスのコマとチェス盤が3組置かれている。チューリッヒになにか縁があったっけ? とスマホで調べてみると、スイス式トーナメント、というものがあるらしい。勝ち残りでも総当たりでもなく、特定の場面では利便性の高い方式だそうだ。そしてのそのスイス式トーナメントが初めて用いられたのが、1895年にチューリッヒで行われたチェス大会だそうである。

そのまま湖に出る。水は遠目には深い緑をしているが、近づくと水面のボートたちが宙に浮いているように見えるほど透明度が高い。桟橋にクルーズ船の電子時刻表が立っていて、そのなかに1hのミニクルーズを見つける。時間は15分後。せっかくの天気だしと勢いでチケットを購入する。

手前にある売店でホットドッグを購入する。うまく伝わらなかったのかナメられたのか、苦笑いで雑に対応され、マスタード抜きのケチャップしかかかっていないホットドッグを渡される。ソーセージはおいしいけれど、ケチャップが多すぎてしょっぱい。ただ細長いパンに穴が空いていてそこにソーセージが刺さっているスタイルだから、食べている途中でソースが垂れる心配がないのはいい。

クルーズに出る。船で釣りをしている人がいるのは想定内だが、沖合を平気で泳いでいる人たちがいる。こわくないのだろうか。ところどころ岸辺には板で張り出しがつくられており、そこで大勢が水着になったりただ上裸になったりして日光浴をしている。日光浴をしている人を初めて見る。

湖の奥、遠くそびえるアルプスの頂上付近にはまだ雪が残っている。

船が岸によるたびにくしゃみが出て目がかゆくなる。さすがにおかしいとおもってちゃんと検索してみると、ヨーロッパではイネ科花粉症が猛威をふるっているらしい。私はもともとイネ科の花粉症を持っている。地元ではひどかったが、ここ数年上京してからはマシになっていた。体調がわるい理由をようやく突きとめた。持病が再発していただけだった。

こうなったら対処しないわけにはいかない。近くにある薬局を探し、黒人の薬剤師に、do you have medicines of hay fever? えーっと、allergy。of courseと彼は返し、後ろの棚から薬を出してくれる。これがもっともよく効く。あなたはすでに症状が出ている(マスクをしていたが、目は充血し何度もくしゃみをしていた)。まずすぐに飲むこと。そのあとは毎朝、それでも効かなければ午後にも飲んでいい。えっと一回に、per、how many pills? 1錠だ。わかった、これをください。およそ6000円の出費だが、背に腹は変えられない。店を出てすぐ手持ちの水で1錠飲んだ。

近くのキオスクでパッションフルーツのジュースを買い、駅のベンチでやすむ。ただのジュースかと思いきや炭酸で、体調のわるさと疲れが乗っかり、せめてフランスで買っておけば出費も少なく済み、自分である程度説明を読んでスムーズにいっただろうに、てかドイツ語にしても基本的な単語を覚えておけば、と後悔する。

薬というのは偉大なもので、30分が経つころにはかゆみと熱っぽさがずいぶんおさまっていた。薬剤師の彼に心から感謝を伝えたい。書いたこと書かなかったことを含め、ヨーロッパに来てからさまざまな善意と悪意を受け取ってきたけれど、本当に彼には助けられた。あとでGoogleマップにコメントを書いておこうとおもう。

しばらく本屋で時間をつぶし(英語の本の売上第2位がコーヒーが冷めないうちにだった)、クール行きの電車に乗る。となりの席には迷彩服の赤毛の男が座る。Armee Suisseと書かれたオリーブ色のリュックサックを持っており、かなりつよい香水のにおいがする。香水はあまり得意ではないのだが、強烈な眠気におそわれる。さっきの薬の副作用だとおもわれる。

起きると窓外にとてつもない高さの絶壁がある。山をざっくりナイフで切り分けたような見た目で、その手前には翡翠が白濁したような色の湖がある。Googleマップで確認するとヴァレン湖というそうだ。

牧場に牛がいて、馬がいる。詳細は忘れたけれど、自分の地元には羊しかいなかったのに、牛がいたと幼少期の回想で偽った作家がいたとなにかで読んだことを思い出す。

こんな山奥なのに自然が開けているように感じるのはなぜか。

途中、巨大なザックを背負った男女の若いグループが降りていく。格好から大学の登山サークルみたいなものだろうかと想像する。

フランスのmonoprixがスイスのcoopなのだろう。スーパーマーケット。

日本語のノイズがすくないから、日本語がとめどなく書ける。

クール着。街中を歩いていると露骨にジロジロ見られる。しばらくして気づく。アジア系の人がいない。黒人もアラブ系もかなり少数で白人ばかりだ。

疲労と雰囲気にすっかり飲まれてしまい、夕食はスーパーで済ませると決める。近くの大きなスーパーに買い物に行くが、うちでは酒を扱っていないと言われた。10年後のスタンダードを垣間見た気がしてショックを受けた。

駅前の肉屋でソーセージを買う。レジのおばちゃんは英語が苦手で、夫らしき奥のおっちゃんが単語ごとに翻訳してくれる。そんな感じで迷惑をかけているのに、おばちゃんは、テイクアウト? あったかい! ここで食べられる! いまがいい! と笑ってくれて、なんか限界で泣きそうになって、帰りに歩きながら食べます、本当にありがとうと伝え、そのとおりにする。牛肉のソーセージ。たぶんナツメグ系のスパイス。うまい。

共用のシャワーを浴び、フロントの腕と首にくまなく刺青を入れている女性(スイスに来てからめちゃくちゃ刺青を見かける、そういう文化があるのかもしれない)に、May I borrow a hair dryer? of course! とたぶん今日2回目。

ストレッチをして、薬を飲んで、夕食に。外が騒がしい。拍手と笛が鳴り止まない。テレビをつけて気づく。UEFAだ。あまりサッカーは知らなくて、ツイッターにそのことを書いてみる。逃げているとおもう。こういうツイッターの使い方はいつぶりだろうか。学校にうまく通えなかった頃を思い出す。

ビールがおいしい。The unbearable lightness of existenceを読み進める。

この喧騒のなか、いつになれば眠れるだろうか。