悲しみの花粉症デビューである。
いつかそうなる気はしていたが実際なるとがっくりくるもので、言ったところで何かが変わるわけでも別に何か助けを求めるわけでもなく、「なった」と誰かに伝えたくなるものがある。そういうとき先人たちは哀れみとか仲間が増えた喜びなのかよくわからない顔で「ようこそ」などと笑うのだ。
幸い私の花粉症は今のところ目の痒みと喉の違和感なのでいわゆるティッシュが手放せない程ではないのだが、これも時間の問題なのかもしれない。
予備軍とか、認めずに医者にかからず市販薬で過ごしている人も多いと聞くが、私の諦めは早かった。遅かれ早かれそうなるような気がしていた。というのもゴリゴリのアレルギー人間というか 長年アトピーと戦っている。
子供の頃からなんとなくアレルギー体質で、それなりに大人になってもう一度ちゃんと調べた。結果、卵とか小麦とか特定の食べ物で一発アウトのタイプではなく、いろんなものが満遍なく標準値超えだから常に慢性的に荒れているし、満遍なくだから逆に特出して出てないのでは?みたいなことを言われた。ひとつだけとかならそれを避ければいいがたくさんだともう、どうしろというのだ。
ここでちゃんと改善しようという前向きさがない奴が苦しいなどと言うのは努力もせず何を甘えて…ということなのかもしれないが、今まであったものを避けて劇的に改善が期待されるわけでもなく、となるとQOLが下がるだけではないか…と思ってしまう。前向きに治療に取り組めないというのもセルフネグレクト的なよくないものなのだろうか。
本来なら無害の物質を、勝手に有害認定してひとりで不要な戦いをして疲弊している。なんと無意味なことだろう。それで苦しみ余計なストレスを溜めパフォーマンスを下げているのだからやりきれない。好きな思想家?についての解説本のなかで、自分自身であることに対する疲労感について「現世アレルギー」という言葉が使われていてなるほど!と思ったが、まさにそんな感じだった。しかし逆に世界にとって異物なのは私の方で、だから攻撃を受けてしまっているのでは?のような自罰的自責的な気持ちにもなる。まあこれは認知の歪みで悲観主義の拗らせすぎでは?というのは理解している。できればやめたい。
でもなあ、言わせてもらうと痒いというのは悲しいとか虚しいとかその手のマイナスの感情に繋がりやすいし、同時に自分を責めるほうこうに繋がりやすいと思うのだ。痛いに対する対処は「すぎる」ということはあまりないけど、「痒い」への対処として掻くという行動をとると、なかなか満たされないわりに、そのくせ往々にして簡単に 「すぎる」に転がってしまう。傷を作ってしまう。求めた痒みの解消を得られないまま新たな傷と痛みを増やしてしまったりして、自分でやったことだから自分以外誰も責められなくてただしょんぼりする。あの虚しさといったら、もう、惨めで情けなくて消えてしまいたくもなる。
なんの話をしていたんだっけ。そう、アレルギー。何も考えずに打っていると酷い雑文になる。世のブログ書き人は小説でいうプロットみたいなもの考えてから書いているんだろうか。
まあいいや、ここ数日の花粉マシマシによってアレルギー反応がすんごくて、大変気がたったり逆に頭の中の思考がぐるぐるしたりして、このような仕上がりになっております。