作業中とか車の運転をしている間は何かしら曲を流していたいタチだが、悲しい出来事でメソついているときに好きな曲を聴くと曲と記憶が結びついてしまいそうな気がする、と思い三月末あたりから普段聞いているプレイリストを流すのをやめていた。
それでラジオでいいやとNHKのアプリをダウンロードし、普通のおしゃべりラジオやニュースなんかでも良かったのに聴き始めたのが英会話の番組だった。一本ずつが短いのもある。おかげさまでここ数日謎の英文法英会話脳になっている気がする。ありがたいことである。
たまたま年度末だったからなのか特別企画みたいなのやっていて、特定のシチュエーションでありそうな会話のセリフを日本語で言う→数秒の間になんか答える→次のセリフが来る、みたいなやつが面白かった。初めはそれはもう全然わからないが、答え合わせしてすぐまたもう一周がくるから定着してるかの確認ができる。こういう瞬発的というかあんまり考える時間を与えずにぱっぱか進むやつをやるのが良かったような気がする。
同じような理由でここ数日フィットボクシングが妙に捗っていた。もともとの時間が短かったんだろと言うのは確かにそうだが、3月末からのプレイ時間がそれまでの2倍弱くらいになっている。
深刻な心的外傷を負うような出来事のあとにテトリスをやるとその悪い記憶が定着しないから予後がいいみたいな話を聞いたことがある。似たような話で目の前に出てくる指示通りに体を動かしていればあんまり余計なことを考えなくていいということなのかもしれない。
でもまあ、悲しくなるのは別に余計なことではないのだとも思う。ある程度の悲しみに浸る必要というか、そのことで得られる何かがあるような。でも必要以上に湿っぽくなってしまうのもなあ、というバランスが難しい。こんな気持ちのいい春の日に旅立った人のことをメソメソするのもなあ、でも寂しいもんは寂しいわい、というのをぐーるぐるしている。
脳内メモリの陣取り合戦みたいに、どういう湿度のどういう感情で過ごすか考えてはいるものの、
好きな曲と悲しみをセットにしたくないのも、とても悲しくなってしまう代わりに無心に体を動かしてみるのも、あまり湿った記憶にしたくないもの、忘れてしまいたいわけではないのも、どれも本当でたぶん間違ってはいない。
推しの哲学者の好きなフレーズに「あらゆる涙が乾いていく」というのがある。今まではそれをなんとなくで好きだと感じていたけれど、これからは今までとは別の手触りで読むのかもしれない。
今年の新しい戦隊の主題歌が配信されたので戦隊プレイリストを更新した。これからは多分これをぐるぐる聞くのだと思う。戦隊ソングはよいものだ。気分をアゲるにはもってこいだと思う。今年のは特にいい。最高。この話もそのうちする。絶対する。