にっき

imdkm
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この土日は最近手がつけられていなかった翻訳の作業にあてた。するとマジであっという間に2日間が終わり……でもおかげで15~20ページ(はじまりのページ数うろ覚え)は進んだ。これから毎日30分はやりたいが。

なんの翻訳してるのか、いっていいのかわからんが『音の本を読もう』でも取り上げているあれである。翻訳作業をしながら、いやこれは、もうなんだかんだ7年くらい前の本だけど、まだアクチュアリティがあるぞ、とうなっている。来年には出したい、と編集さんと話している。

おとといのバイト帰りに買った「レンジでチンして調理できるアジのみりん干し」を朝食に食べたのだが、ほんとにレンチンでおいしくできたのでまた見かけたら買おうかな。ふつうにみりん干しを買って、魚焼きグリルとか、フライパン(クッキングシートをしくとうまく焼ける)とか、あるいはレンジ調理用の小物を買って使うとか、すればいい気もするけど。

大豆ミートとレンズ豆にタコシーズニングを加えてつくったタコミート。結構上出来で、おいしくタコライスを頂いている。生のトマトをさいのめに切って玉ねぎとあわせてかけて食べたりしているが、うーん、まあ缶のダイストマトでも別にいいよな。まあしばらくはタコライス食べ続けます。

ライター仕事の収支をいろいろ計算していて、ちょっと暗い気持ちになる。もうちょっとがんばらないと駄目だ。35歳は「ライター」をがんばるんだろ!? と自分に発破をかける……が、そううまくはいかないのである。念じたからと言って仕事が来るわけでもなし。とりあえずバイト入れて、たくさん音楽を聴いて、本を読まなくちゃ。

リスト企画を2つ、別々の媒体から、別々のテーマできていたので、どちらも済ませてメールを送る。

鈴木亘『声なきものの声を聴く ランシエールと解放する美学』(堀之内出版、2024)を第一章まで読む。自分が学部生~院生くらいのころは、ランシエールの特に美学関係の著作が翻訳されていたタイミングで(たとえば『感性的なもののパルタージュ』2009、『イメージの運命』2010、『解放された観客』2013)、参加型アートに関心があった自分もクレア・ビショップ経由でランシエールに触れようとしていたが、なんかすごいおもしろいこと言ってるけどよくわからんにゃん、とぼんやりしていた。ただランシエールの言ってる基本的なテーゼ(政治観であり、芸術観)はすごく気にかかっていて、いつかちゃんと……と思っていたのであった。『声なきものの声を聴く』はランシエールの特に美学を扱ってる研究書(いわゆる博論本)なんだけど、第一章での基本的なランシエールの芸術観/美術史観のおさらいをグリーンバーグやリオタールとの対比でまとめていくところがすごく明快で、あーなんか今なら『感性的なもののパルタージュ』とかわりときちんと読めるかもしれん。と思った。

って、おまえいまアートとかやってないじゃんと思われるかもしれないが、わりとおれの根本的な関心は「なにが音から区別されて音楽になりうるのか/なにが日常的な言葉から区別されて詩・詞になるのか」というところで一貫していて、これは現代アートの話でしょとかあんまり思わない。この関心の根っこは実はグリーンバーグやフリード(芸術と客体性)を読んだことから来ていて(リテラルにかれらのアプローチにも影響を受けているが、反面教師的な部分もある)、でも実はフォーマリズムやメディウムスペシフィシティみたいなことには関心もてないから、なんか引き裂かれがずっとあった。でも、ああランシエールの美学にうっすら惹かれてたのってそーゆーことなんかもしれん。などと十数年ごしに、歴史修正的に(笑)思ったのであった。一度グリーンバーグのなにがおもしろいと思ったのかちゃんと思い出して書いたほうがいいのかもしれない。研究はできなかった(研究対象にもできなかったし、そもそも研究者にもなれなかった)から、それこそ散文的にでも。