弾丸東京カル活日記(4月9日)

imdkm
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公開:2025/4/10

4月9日、急遽東京に。朝6時ごろにバスタ新宿につき、少し時間をつぶしてから、24時間営業の珈琲貴族エジンバラに向かう。知り合い3人と合流して朝活。モーニングを食べながら3時間くらいだらだら喋る。突然声かけたのに集まってきたみんなすごい。

いい頃合いで解散、おれは竹橋へ移動してお目当てのヒルマ・アフ・クリント展をみる。

数年前、ドキュメンタリー映画が話題になって広く紹介されはじめた当初は「カンディンスキーよりもはやい抽象画の先駆」的な言及が多かったものの、国立近代美術館での展覧会を機会に単に「早い」だけじゃなくてその活動のユニークさをさまざまな観点から紹介するコンテンツも増えてきた。というわけで抽象云々みたいな話は本題じゃないとわかっていたのだけれど、実際見ると全然違うし、独特の面白さがある。

なにより、いわゆる「抽象」よりも、あんまいい顔されない例えだろうけど、デュシャン(大ガラスとか)を連想するようなところが結構あった。感じとった(霊的な)世界を平面の絵画として表現しようとしたときに、あるフィールドのなかに図像や色彩を配置するかわりに、たとえば建築図面みたく構造を示すように描いたり、あるいは連作という形で変化や運動も示唆する。というあたりに、四次元を三次元に投影したなどとも嘯かれる、謎めいた図像がダイアグラムを織りなす大ガラスっぽいなと思ったのだった。実際には、もっと自然科学や天文学といった分野からのインスピレーション(アフ・クリントは馬の解剖図の挿絵を描いたりしていたというし)も大きいのだけれども。

アフ・クリントは自分の作品を神殿に設置することを望んでいたわけだが、霊的世界のありようをどうにか二次元へうつしとろうとした作品を見ていると、空間から作らんとしゃあないみたいな気持ちはすごくわかるような気がした。アフ・クリントの作品を見ているとしばしばミクロとマクロのスケール感が混濁するような感覚におそわれるのだが、これが完璧に配置された空間はさぞかし迷宮のごときスペクタクルを生み出していたのではなかろうか。

最後の資料パートも分量は控えめながらすごくピンポイントに鑑賞のたすけになるものが展示されていてよかった。そこを抜けてグッズ売り場に入ると「う~んヒルマはどう思うか……」と思ったけど正直グッズのセンスはやっぱよかった…… 荷物増やせないから買わへんかったけど。コレクション展はちょっと前に見ていたので割愛。

パレスサイドビルでとんかつ食って移動。

京橋の小山登美夫ギャラリーでリチャード・タトル「San, Shi, Go」。学生時代、京都に小山登美夫ギャラリーができて、そこでリチャード・タトルの作品をはじめて見た(あれこけら落としだったんじゃないかな)。金網に紙粘土みたいな素材をはっつけた奇妙なアッサンブラージュで、とても好きだった。今回展示されていたのは日本の数字にインスパイアされたアッサンブラージュ群で、端材やごみのようなフラジャイルな素材を繊細な造形的バランスで組み合わせた商品がレリーフのように壁にかかっている。ものによってはすごく刺さる一方で、なにか素直に鑑賞できないあざとさを感じるところもあった(ジャンクなようで異様に清潔な感じとか……)。応接スペースみたいなところにおれが好きな金網の作品があったのでちょっと見たかったが、入れるのかわからなかったのでやめた。

つづいて、すぐとなりのアーティゾン美術館で、ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ展。あまり予備知識なく、かつトイバー=アルプについてはほとんどなんも知らないまま鑑賞。染織やビーズといった応用芸術を学んだ流れから、直線や平面の分割を軸とする幾何学的造形を強みとするトイバー=アルプに対して、生命を思わせる曲線を追求した有機的造形を強みとするアルプ。ある種対比的なふたりが「抽象」やジャンル間のヒエラルキーの問い直し、協働といった20世紀初頭の歴史的アヴァンギャルドのアジェンダを共有し、共に活動に励んだ軌跡はそれ自体おもしろい。ほえーと思いながら見ていくと、トイバー=アルプは睡眠中の事故により急逝。パートナーを喪ったアルプのその後をトイバー=アルプとの関わりから見ていく最終章で展覧会は終わる。トイバー=アルプのカタログ・レゾネ編纂に携わり、ファインアートの芸術家としての評価を確立しようというアルプの思いをどう評価したらいいかはわからないが、なによりも芸術家の同志としてトイバー=アルプに抱いていた敬意を感じ、予想外に食らってしまった。あんまりウェットなの好きじゃないんですけどね……。

あまりの疲弊に、硲伊之助展やコレクション展は気もそぞろになってしまった。戦後すぐにマティス展を実現しようと奔走したくだりはアツかった。

そのまま歩いてギャラリー小柳でのジャネット・カーディフ&ジョージ・ビュレス・ミラー「Small Works」へ。文字通り、音を用いたインスタレーションで知られるアーティストの小品を集めた展示。ジョセフ・コーネルとかを彷彿とさせるようなアッサンブラージュ(箱ではないけどね)にボタンがついていて、押すと音をたてたり動いたりする。すごく凝ったことが起こるわけではなく、音源が鳴ってモーター仕掛けでちょっと動くくらいなのだが、シュルレアリスティックな不気味さとユーモアが同居する感じはインスタレーションと通じるところがあった。

さらに移動して、Maki Fine Arts で益永梢子「このあたり、その近く」。気になっていたけどちゃんとみるのは初めてだった。あらかじめ決まったルールに基づいて制作される絵画作品なのだけれど、絵の具をカンヴァスにのせて、固まったら剥がして、移動して再構成して…… という方法がつくる画面の物質的な面白さがメインかと思ったら実際にはそうでもなく、結構そのなかにまぎれたり巻き込まれたりしている線が魅力的に思えた。また、「剥がす」動作のなかで起こる色や線の転写で絵の具と支持体の関係が曖昧になって、結果的に物質性が相殺されているあたりが不思議でおもろかった。

そのまま駅近くのジョナサンでガパオライスや菜の花とたけのこのガーリックバターソテーを食べ、ドリンクバーで嫌になるほど青汁を飲み続け時間を潰した。もうほんとにグロッキーで、なんでこんな無理な弾丸滞在をしたのかと本気で後悔しはじめていた。

が、夜には久しぶりに会う人たちとの会食があり、いろいろと話し込む。ジェネレーションギャップなのかカルチャーギャップなのかを感じるところもいろいろあったものの(自分がゼロ年代批評的なものにいかにコミットしてこなかったかを感じた……)。その後、バスの時間まで珈琲貴族エジンバラに行き、そこではふとした話題から「カルチャー系YouTuber、けっこう話題にのぼりやすい人気チャンネルでも登録者数50万人くらいが壁」という仮説を検証する流れになった。あれはなんだったんだ。

パフェ食ってもうおねむになったおれは、バスタ新宿で乗り込んだバスで即寝し、早朝に山形に戻ったのであった。