にっき

imdkm
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5時間睡眠。でもへこたれやしねえ。朝、新譜をいくつかチェック。といってもそんなたいした量ではないが。「あとで聴こう~」と思ってめぼしいリリースをライブラリに加えておく。

フランク・ステラが亡くなったという。一時期は初期のモノクロームのストライプがかっけえなと思って好きだったけれど、いまはそんなに好きではない。とかわざわざ言わなくてもいいのだが。けばけばしいレリーフ状の作品はあんまり良さがわからない時期がながかったけれど、あるときから結構好きになったな。

10時くらいまでだらだらしてしまったが、翻訳作業を進める。あんまり進捗かんばしくなく、歯噛みする。お昼ご飯のかわりに麻辣ピーナッツ食べたら口がしびれた。不健康すぎる。

午後もある程度翻訳に集中したが、Twitterで話題の「ライブでのノリ方」の話をいろいろ考えてしまう。正直「どうでもよくね?」と思う。むしろ、なぜみんなが同じ動きをしている状況が望ましくないのか、「自由に動いてほしい」とパフォーマーが言うとき、本当はなにを言おうとしているのか、ということを考えたい。ライヴやダンスフロアでステップを共有したり、同じ振り付けをしたり、コールを入れたりしているのを見ると、音楽というのがある種の社会的なコードにあふれた儀礼であるのだなぁと再確認できてそれはそれで興味深い。一方で、「自由に動く」ことがそうした儀礼性から逃れることかというとそうでもない。むしろ、そこで想定される「自由さ」の内実をこそ批判的に問うべきではないのかと思う。

各々が好き勝手音楽を楽しんでいる、そんな場をおれも美しいとは思う(あえて審美的なことばづかいをしてみよう)。しかしそれは、ある種の価値観、つまり自立し自律した主体として能動的に行動する人間像をよしとするような価値観を自分が信頼しているということでしかない。そうした人間像からこぼれてしまうさまざまな人のことを自分は知っているし、そうした「自由」の場としてのフェスやコンサート会場やライヴハウスやクラブにはうんざりするほど大量のバリアがあることも知っている。そういうときに言う「自由に動いて」ってどんな意味があるのか、いろいろ考え込んでしまう。

ルソーが「劇場作って演劇やるくらいやったら花一本だけ広場に飾ってそのまわりでみんな思い思いに自分らしくおったらええやんけ(意訳)」みたいなことを言っていたらしいのを思い出す(ダランベール氏への手紙、学生時代に読もうとして、わっかんね~と思ったのだった)。

夕方ちかくなり、可変抵抗が届く。MC-505をひっぱりだしてきて、銅線を使って設置。動くには動く。しかしいろいろいじってたら、どうやらうまく作動しないタクトスイッチがあるらしい。もう正直ほっといてもいいかなという気がするが、ちょっといろいろ悪あがきしたい。

AliExpressで注文していたCDJのピックアップが税関を出られず返送されてしまったため、キャンセルする。国内で売ってるところがあったので、倍以上する値段だけど、まあそれでもジャンクで買った値段とあわせても中古でCD-DJ1を買うよりも安くあがるのでまあいいだろう。注文しなおした。

いろいろくたびれてしまい、甘いものがどーしても食べたくなり、スーパーへ行ってしまった。よろしくない。よろしくないですぞ! チョコミントアイスだいすきおじさんのおれは、ガリガリ君のリッチチョコミントを発見して大人買いしてしまったよ。

夜、読書会。まあいい感じでした。ラストスパートです。

うーん、くたびれた。きょうはよく眠れる、かしら。