オッス、オラ障害者。
ADHDで精神障害者保健福祉手帳3級を所持している。
加えて言うと、非正規オフィスワーカーで福祉職につくために社会人大学生をしている40代だ。そして、一時期はサブスクで月に60誌程度斜め読みしていたマンガ読みでもある。
今はそこまでではないが、講談社のコミックDAYSに課金してマンガを楽しんでいる。
このステータスで『みいちゃんと山田さん』を知らなかったのはウソみたいだが、実際マジで知らなかった。
アニメ化するだの、編集者が酷い発言をしただの、アニメ化反対署名があるだの、随分ときな臭い。
まあそれなら読んでみましょうかと読んでみたが、感想としては“無“であった。もっとエグいモンいっぱいあるし。。
しかしながら社会問題として発露しつつあるならば、おれもその考えをまとめてみようと思った。
このエントリーは障害当事者が書くが、目に見えて分かる当事者性は含まれない。しかし障害当事者であることは明示しておく。わかんねえと思ってナメてテキトー描いたら当事者がチョクで反論してくる世の中になった、そう思ってもらえたら幸いだ。
このエントリーは3つの項目に分かれる。
1.なぜ障害者が殺される物語はダメなのか。相模原障害者殺傷事件の再来を防ぐ
2.リアルじゃない。『みいちゃんと山田さん』に真実はない。非マンガ読みへの解説
3.リアルを超えもしない。マンガ読みへの訴え〜映画館なら出られたのに!〜
それではまず、そもそも『みいちゃんと山田さん』がなぜダメなのか、おれの学びや生活を下敷きに考えを書く。
・なぜ障害者が殺される物語はダメなのか。相模原障害者殺傷事件の再来を防ぐ
まず、『みいちゃんと山田さん』についてざっと紹介する。
みいちゃんと山田さん | 【第1話】1か月目 / マガポケ | 少年マガジン公式無料漫画アプリ
舞台は2012年の新宿。キャバクラ嬢として働く「山田さん」と、同じキャバクラで働き始めた「みいちゃん」を描く。
みいちゃんは漢字も空気も読めず、どこでもバカにされ続ける。明らかに知的障害・発達障害の症例を呈しているが、時代的、業界的に、その事実をみいちゃんに伝えられる人はいない。みいちゃんはいじめられ続けるが、山田さんはみいちゃんのことが妙に気になっている。しかし、みいちゃんは1話にして、12か月後に殺される未来が予告される・・・というストーリーである。
作者は亜月ねね。もともとはエックスでwebマンガとして発表されていたが、講談社が商業として連載を決定。掲載媒体はマガポケ(ただし、講談社のアプリコミックDAYSやシリウス公式などでも読めるようだ)。講談社の「マガポケ」では「マガポケオリジナル」「ヒューマンドラマ」「裏社会・アングラ・ヤンキー」「有名マンガ賞」のラベルが振られている。このマンガがすごい!2026 オトコ編にランクイン。ウィキペディアの情報では発行部数は280万部を突破しているとのこと。また、先だってアニメ化の発表があった。
障害者が死ぬ話であるのはなんの疑いもない。
それではなぜ障害者が死ぬ物語がダメなのか。
そのために、相模原障害者殺傷事件の話をする。
2016年7月26日、障害者施設の津久井やまゆり園で19人もの大量殺人事件が起こった(入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷)。
ターゲットにされたのは施設利用者の19人の人々。放火などではなく、直接的な殺害としてはいまだに戦後最悪の被害数の事件とのことだ。
おれはこの犯人の些細な加害心理に興味はない。ただし、犯人が言っていたという「重度の障害者は安楽死させるべきだ」というこの一点に注目する。
なんの疑いもなく、これはNOだ。
犯人はナチスドイツの思想に同じだと言われても撤回しなかったようだが、ナチスドイツの優生思想は最終的に“優秀なアーリア人を残す“ための思想である。犯人も、「犯人の言うこともわかる」という人も、ナチス流に言えば障害者、モンゴロイド、日本語話者など些細な順番の違いでしかない。日本に適用したところで、優生思想は要はエリートだけを残すための思想。ジャパニーズなら三代政治家生まれでもなきゃ殺される側である。
と言いつつ、概念としてのちょび髭のおっさんにジャパニーズ全員殺される前に、相模原障害者殺傷事件の犯人の再来が起こると困る。なので社会で防がねばならないとおれは考える。
それがマンガとなんの関係が?と人は言うだろう。残念だが、関係はもうできている。
今、エックスなどでは「みいちゃん」という侮蔑語がある。もちろん、『みいちゃんと山田さん』のみいちゃんだ。言ってる本人たちが意味や定義を考えて使っているか定かではないが、少なくともそのことばには障害者差別の強い意志がこもっているのは間違いない。
「障害者を罵っていい」は、「障害者を殺していい」に育つ種だ。ましてや、物語では障害者が死ぬ。
『みいちゃんと山田さん』は、障害者をただ殺すだけでなく、いじめ抜いて泣ける物語に仕立てている。物語の中でずっとかわいそうだったみいちゃんの死が救いなのは当たり前だ。愚かで助けをはねつけ、積極的に介入してくれる人も皆無、徹底的に痛めつけられるというキャラクターである。そりゃ死んだらラクにもなろう。そう描いているのだから。
どっこい、現実ではみんなそこそこ色々考え、社会福祉を頼ったり人を頼ったり、苦しかったりふざけたり、地味にボチボチ生きている。その辺の“普通“の人と同じである。
そんな感じで特にかわいそうでもないものを、「お前はかわいそうで死んだ方がマシなみいちゃんだ」と指差すやつが出た。それは『みいちゃんと山田さん』という作品が起点なのは揺るぎない事実である。
『みいちゃんと山田さん』がマンガからアニメになることで、ネットミームはさらに拡散する。そして明治から続く出版社・講談社が、アニメ制作会社や声優、配信プラットフォーム、広告会社などを巻き込んで、「障害者がビタイチ救われず、死んだ方がマシ」物語で大々的に儲ける。そして流行っているからと訳もわからず「お前はあんな風に死んだ方がいいんだ」と騒ぐ人間が増え、その中からとりわけヤバい個人がまた刃物を持ってやってくる。
おれたちは相模原障害者殺傷事件の犯人の再来を予防しなければならない。
おれはそのために「みいちゃん」なる侮蔑語を許さない。そしてその元となった作品自体についても、その不誠実な作り方を指摘して「やっぱりこれはまずいかな」と考え直すきっかけとなりたい。そういう「風潮」を作ること、これが相模原障害者殺傷事件の再来を社会で防ぐことになると考える。
大げさなのでは?と言われれば、ネットミームがあること、山ゆり園が襲われたのは事実だろ、と言う。
大量殺人犯なんて滅多に出ないのでは?と言われれば、たった1人でも出れば19人殺されるんだよ、と言う。
でもそんなの止められないのでは?と言われれば、止めるんだよオ!
この話は以上だ。グズグズ言いたい人はこのエントリーを閉じ、ちょび髭のおっさんが“アンタの番“に殺しにくるまでグズグズ言ってればいい。
しかし、たった一つ、『みいちゃんと山田さん』のようなマンガが肯定される理由がある。
それは「知ること」だ。自分の知らない属性、自分の知らない被害、障害者が殺されている事実があるなら、それを知ることは問題を解決する重要なプロセスである。
しかし、この点に関して、『みいちゃんと山田さん』は全く役に立たない。これは次項で書く。
・リアルじゃない。『みいちゃんと山田さん』に真実はない。非マンガ読みへの解説
『みいちゃんと山田さん』で障害者のリアルを知ることはできない。この点を解説する。マンガ読みの視点よりは、社会的に判断できる事柄を取り上げる。
まず、『みいちゃんと山田さん』には監修や取材、参考文献など、外的に信用を担保する記載がない。
1巻の巻末には、個人名とNPO法人風テラスが取材協力としてクレジットされているが、それ以降の既刊6巻に関しては取材クレジットはない。当然、医学的、制度的な監修もない(3巻巻末で児童精神科医との対談はついているが、内容の保証などはしていない)。もちろん参考文献もない。
もちろん、名前を出さなくても関係者に取材をしていた・・・という創作はある。または作者本人が精通、ないしは本職であり、自身が監修を務められるまでの創作者もいる。しかしこと医療に関わる事柄を医療者じゃない作者が描いているなら、客観評価として「じゃあホントか嘘かちょっとわからないな」と思われるのは社会一般の常識として当然である。
社会人として生活していれば「医療デマを撒くYouTuber」など掃いて捨てるほどいるのを知っているだろう。その辺を慎重に判断するのはマンガに限ったことではない。
取材や監修者についてもらうことは、内容に厚みや正確さを与えるだけではない。巻末クレジットで名前を連ねてもらうことで、取材先や監修者の社会的な信用を以て作品の信頼性を担保する。・・・つまり「この人が関わってるなら少なくともウソじゃないんだろう」という信頼を与える。
個人発表のインディーズマンガであれば現実的に難しい部分もあると思うが、出版元は明治から続く老舗の出版社、講談社である。専門家への関わりは多数あるだろうし、これだけヒットしているマンガなら取材費だってしっかり出るだろう。見えにくく差別が厳しい障害を描くのに、できる手段を取らない。正直、意味がわからない。
また、参考文献を多用して描かれるマンガも多い。特に歴史ものともなれば、巻末が参考文献でぎっしり埋まっている漫画が多数を占める。もちろん歴史ものだけではなく、ありとあらゆるジャンルに参考文献はつく。そしてその参考文献のクレジットもまた、外的な信用たり得るものだ。
そしてもちろん、『みいちゃんと山田さん』には参考文献の記載がないのだった。当の講談社からも障害に関わる良書は大量に出ている。なぜ・・・?と本当に疑問である。
取材や監修、参考文献といった外的な信用がないのであれば、あとは創作者たち本人への信頼はどうだろうか。この点も全く期待できそうにない。
掲載媒体のマガポケの2025年のインタビュー記事を参照にしてみる。
描きたいのは、リアル感のある物語――『みいちゃんと山田さん』亜月ねね先生インタビュー - マガポケベース
※2026/8/4 16:52、上記記事は非公開になっているようだ。アーカイブの意味も込めてこのままにしておく※
注目したいのはリアル「感」ということば選びである。ことばのプロである編集者も同行していながら、あくまで「リアルではない」「リアル感である」と出してきており、「ならリアルじゃないんだな」と受け止めざるを得ない。
また、以下のようなインタビュー内容で、信頼感の損失が確実なものとなる。
”登場するキャラクターたちについて、障害があるなどの設定は決めていないので、作中で明言しようもありません。ただ、ムウちゃんは例外で、正しい診断と教育を与えられなかったみいちゃんとの対比を描きたかったことと、支援に取り組む人達の存在も描きたかったので、障害について明言しました。”
(マガポケベース「描きたいのは、リアル感のある物語――『みいちゃんと山田さん』亜月ねね先生インタビュー」2025年06月23日/講談社※2026/8/2 09:06閲覧 から引用)
まず、どう〜〜〜考えても障害として描いておきながら「明言のしようもない」と言うこと、これを「信頼のおける書き手」と評価することは難しい。どんな背景があれど、「すげえ障害っぽいと感じますけど、じゃあとにかく真に受けるなってことですね?マジで?これで?ええ・・・?」という、「この人信用ならね〜〜〜」という反応になるのではないか。
また、逆に障害について明言したキャラクターがいる、とのインタビュー発言に、「監修無しで!?」とビビる。誤った医療や福祉制度を描いてしまうと、社会的に問題になる。だからさまざまな作品は、はっきりとそのワードを出して言い切る場合はコストをかけて監修をつけ、その内容を専門家に確認するのだ。
講談社で280万部売れたマンガであって、拡散力は大きい。このインタビューは2025年のものだが、当時だって相当売れていたはず。問題になるとか考えないの?なんでそんなに意固地に監修つけないの?日本最大手の出版社なのに?と単純に疑問に思う。マンガのみならず、SNSで企業がこの手のことで炎上してるのを何回も見ている。なにも考えてない・・・?と不安になる(そして実際、アニメ化発表した後にその通りになった)。
このインタビュー内容で、「よく考えて誠意を持って描いてて、社会的に信用できる感じ!」と思ってくれる大人はまずいないと思う。社会一般常識として、本気でやる気はないんだね、と評価されるだろう。会社だったらふつうめちゃくちゃ怒られる。
本項をまとめると以下となる。
・外的な信頼を得るコネも金もあるのに怠っている
・作者、編集者の態度から、社会を本気で描くことに取り組んでいるとはとても思えない
そのため、『みいちゃんと山田さん』で「知らないことを知る」ことはできない。障害者の「本当の被害」を知ることはできない。そもそも、創作者たちが本気ではないからだ。
最後に、マンガとしてのことを述べたい。
この項では、社会人として判断できる事柄を挙げた。
しかし、マンガ、、物語は、時にリアルを超える。考証が雑でも、本来はあり得なくても、それでもなにか「真実」を突くことがある。それがマンガだ。
ただ、ここについて、おれ個人として『みいちゃんと山田さん』で得ることはないと言う。それは次項で書いていく。
・リアルを超えもしない。マンガ読みへの訴え〜映画館なら出られたのに!〜
「マンガを読んでいて映画館を出たくなったこと」はあるだろうか。もちろん比喩だがおれはある。『みいちゃんと山田さん』を読んだからである。
マンガを読むことと映画館で映画を見ることは相当違う。しかし、それでも映画館の比喩を持ち出したのは、日本の商業マンガ700円分を払ってそんな目にあったことがほぼないためだ。
本なのかスマホなのかは分かれるだろうが、とにかく人は1人でマンガを読む。時間の経過がコマで流れ、吹き出しで紡がれる会話を楽しむ。迫力のあるアクションだろうか、コマから迫り出すようなホラーだろうか。平面の中に世界が広がっている。
それは作者の用意してくれたウソである。ウソというのがアレならルールと言ってもいい。それに乗ることでマンガを楽しめる。
おれたちはスマホの中に爆発がないのも化け物がいないのも知っている。しかし、作者が上手にその世界に導いてくれ、そのルールに乗って世界を楽しむ。作者と読者が共同で作る世界だ。
その了解をどちらかが壊せば、マンガの世界は閉じる。
『みいちゃんと山田さん』ではそういうことが起こった。日本最大手の商業マンガでこんなことは滅多にない。
具体的なことを書きたいが、これは虐待の様子を含む。心配な人は読み飛ばしていい。まとめは墨付きカッコの外に書く。
【ここからは虐待描写を取り上げるので不安な人は読まないでほしい】
みいちゃんは明確に知的障害・発達障害者として描かれている(作者によれば「明言しようがない」らしいが・・・)。一方、主人公である山田さんについては、過干渉で支配的な母親からの虐待を受けていることが描かれている。
山田さんの母親は非常にエキセントリックで、約束もせずに一人暮らしの山田さんの家の扉の前で8時間くらい座り込んで待ち、周囲の住民に話しかけて個人情報を話す等の行為がある。こどもに対する支配であり、こどもの人間関係を断絶して孤立させるモラルハラスメントではないかと思われる。
山田さんは当然この母親を嫌っているのだが、物語の進行上、みいちゃんと暮らすようになってその虐待を再現してしまう。
みいちゃんは物事の覚えが非常に遅いし、やるべきことを忘れてしまう。山田さんは壁にメモ書きを大量に張り付け、だんだんみいちゃんのやるべきことを”管理”するようになる。
このあたり、ところどころ山田さんの表情が暗くなったり、目の描写が緊迫したりするので、過干渉の虐待の再現として描写しているのはうかがえる。
うかがえるのだが、その合間に「ホントに分かってんのか!?」という描写が混ざりこんでくる。
『みいちゃんと山田さん』6巻で、みいちゃんは”普通の仕事”に”就かなければならない”ため、山田さんが面接の練習をしようと誘う(ここでは背後に母親のシルエットがあり、価値観の押し付けの虐待の再現であることが示唆される)。その際、「ちゃんと回答できたらグミあげる」と、”ご褒美”を用意し、正解できれば口の中に放り込み、正解できなければあげないという営みを繰り返す。
これに対して『みいちゃんと山田さん』6巻では、コマの背後にイルカの絵を配し「(餌やりのようで)た・・・楽しい」とつぶやく。
本当に楽し気な絵で描画されているので、このマンガがこのシーンをギャグシーン、ないしはほっこりシーンと演出しているのが分かる。
しかし「頭の悪いともだちの行動の正解不正解を判断し、自分の望む正解を出したら動物のようにご褒美をあげる(そして楽しむ)」というシーン、この作品の中でも飛び抜けてグロい。↑のことばを自分の人間関係に置き換えて思考実験してみてほしい。これこそがウシジマくんの世界であるが、たぶん作者も編集もそれをわかっていない。「いないと感じてしまった」。
『闇金ウシジマくん』ならここでどう描いただろうか。『おやすみプンプン』なら?『血の轍』なら?『殺し屋イチ』なら?『コーポ・ア・コーポ』なら?『THE BOYS』なら?『夏目アラタの結婚』なら?『ザ・ワールド・イズ・マイン』なら?『青野くんに触りたいから死にたい』なら?『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』なら?『失踪日記』なら?『残酷な神が支配する』なら?『あなたはブンちゃんの恋』なら?
今まで読んだ、暴力が存在するマンガを思い出す。どれも、ひどいことをひどいこととして認識していたと思う。おれが最悪だと思うことをちゃんと「最悪なもの」として出してくれていた。
おれは『みいちゃんと山田さん』という“映画館“を出た。おれはこの映画館の客ではない。
【以上、虐待描写部分終わり】
まとめる。
・本来、虐待として描かれるべき行為が楽しいセリフ、楽しい演出で描かれていた
・そのため、虐待行為について作者・編集とも理解していないと感じてしまい、作品の演出全てを懐疑的に思ってしまうようになった
「この作者分かってんのか?」と思った瞬間に、マンガを作る作者と読者の共同作業は不可能になる。おれが最悪だと思ってることを最悪だと認識していないマンガは、楽しむものでなく批評対象でしかない。
長々書いたこと以外でもノレないウソがたくさんある。みいちゃんから「殺される」と電話をもらい、DV彼氏のいる部屋に単身タクシーで乗り付ける山田さん(死ぬぞ!)、みいちゃんを手ひどく扱う男性たちに手厳しく非難を浴びせるが、逆上して殴られたりストーカーされたりはしない山田さん(そんなわけある?)、これは別な方が書いていたことだが、この作品には借金が存在しないことを指摘されていた。なんともヌルい夜の街である。
たまたまこの人たちはそうなの!と言われても、そのウソに乗るモチベーションはすでにない。
例えばこの後出る最終巻の8巻で、この描写は伏線だったんでした!と言われても、おれが戻ることはもうない。作者が編集者と二人三脚で読者の感情をうまくリードすべきところで、それはもう失敗して戻らない。
「そんなふうに描いたつもりはなかった」と言われようが、読者がそう思ってしまったらもう終わりなのだ、マンガは。
そもそもが、読者に対して「金もコネもあるけどセンシティブなことに取材も監修もつけない」「障害について明言はしない」など不誠実なことをし続けた。不誠実なスタンスは作品そのものへの不信感としておれに蓄積され、最終的に読むことそのものがムリになった。読者を軽視し続けた、当然の結果だと言える。
マンガは現実を越えることがある。
しかし、『みいちゃんと山田さん』が現実を越えることはない。
そもそも、マンガの世界にすらいさせてくれなかった。ここには何もない。インターネットの通ったスマホに、700円分の線と点と文字が浮いている。
・結び〜受け手への軽視を改めて欲しい。いい意味にも、悪い意味にも〜
マンガ読みは、監修とか無関係に面白いマンガくらい知っている。これは主語が大きいのではなく、マンガ読みなら「公に出たらマズイが好きなやつ」のひとつやふたつあると思う。
アニメ化など望まず(あるいは配信限定など、少しクローズなところで)気の合う作者と読者で、よそ様に迷惑をかけずに濃密な世界を築いている。そんな作品は数多くある。
『みいちゃんと山田さん』についてトータルで言えるのは、「アニメ化するとか言うからじゃないスか」ということに尽きる。
おれがどんなに好きじゃなくても、『みいちゃんと山田さん』の世界に惹かれた人はいる。280万部売れてるんだからたくさんいる。アニメ化発表で大バッシングされるのは当然の作品と評価せざるは得ないが、密やかに私的な感情を委ねていた人たちにも不誠実なことだ思う。
そして、マンガの受け手を悪い方にも軽視しすぎである。
これはもう肌感でしかないが、SNSでマンガの表象を借りた罵声を飛ばす奴に、まともにマンガを読んでるやつはとても少ない。
過去、アメコミの悪役ジョーカーのコスプレをして電車に火をつけた奴がいたが、そのシャツの色が「電車で悪事を働いたジョーカー」ではなく、別作品のジョーカーだったのが記憶にある。こういう輩は、作品などどうでもいいのだ。
実際SNSでも、ネットミームは知っていても、作品を読んだことがない人はたくさんいる(これについては、差別に紐付かなければマンガの面白い展開の仕方だと思う)。
そのため、『みいちゃんと山田さん』の読者が差別をしているというより、その噂を聞きつけた差別者がその作品を借りている、という雰囲気を感じている。
しかし、その邪悪なネットミームも広い意味では「受け手」が作ったものだ。それは読者より統制が効かない。自分たちの差別に都合のいい方に、キャラクターやセリフを解釈して自分の悪事の言い訳に使う。非常に危険である。
できてしまった悪のネットミームの責任の取り方をおれは知らない。ただ、日本の戦中をも存在した超大手出版社の編集部なのだから、社内で検討してしかるべき対策をとってほしい。SNS時代において、なにか差別を抑制するようなことを。
2026年7月26日、相模原障害者殺傷事件の発生から10年目の日、この不誠実なマンガのアニメ化が発表された。
現実社会でも、SNSでも、相模原障害者殺傷事件の被害者の追悼があった。そんな日にである。
編集部が日頃ニュースも見ることがなく、障害者が殺されるマンガをやっておきながらこの日のことも知らず、なにもわかんないんです、ということなのか。
それとも、全てを理解して、炎上すれば話題になるとしてこの日を選んだのか。
おれにはそれは分からない。
講談社のマンガ読者として、誠意ある行動を希望する。
2026年8月3日(2026年8月5日)