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疲れの主語はどこだ?リベラルの読む『リベラル疲れ』レビュー(からくち)

imori0125
·
公開:2026/9/28

分断という言葉が嫌いである。政治的な文脈でよく聞くあれだ。

この言葉は、分断「される側」が放つことが多い。南極とかに浮かぶ大きな氷塊などをイメージしているが、メインとなる大きな氷塊に大きな亀裂が入り、かなりの割合の(しかしメインよりは小さい)固まりが離脱していく。

このような「小さい方に向けて」言われるのが「分断」である。なぜなら、分かれていった方が大きければ分断とは言い出さないからだ。分断の主語は常に大きな方にあり、分かれていった方にはない。

おれは常に分かれていく方だ。

なぜならマイノリティ性を複数持っており、今の構造じゃ困ることが多い。大きな塊=保守的、旧来的な構造だと生活ができないことまである。

やむなく分離していくおれには「分断を止めよう」と呼び掛けられても「暮らしていけないんで自由にやらしてもらいます…」と言うしかない。

おれの立場は、大まかに分けてリベラル(自由主義者)と呼ばれるものだろう。

そんなリベラルに疲れている人がいるという本がある。それがこのエントリーでレビューする『リベラル疲れ』である。

本著は前書きにて、分断について書かれている。

そこにはまさに「他者に同調を強要するようなものでない限り、人がどんな主義信条や価値観を持つかはあくまで個人の自由だ」と書かれている。

まったく同意する。同調を強要されるのは困る。

しかしながら直後に続く。

「(分断は)人が相互理解の道を断たれ、対話を断たれ、最終的には同じ共同体の中に生き続ける可能性までをも断たれるということではないか」と。

・・・そうか??

おれは福祉を学ぶ者だ。世界的な福祉の歴史、制度設計などを知るにつけ、社会福祉がすごく好きになった。

それはドライだからだ。

福祉は法に則る。支援者が性格が悪くても、被支援者が性格が悪くても関係ない。人権がある以上、支援者と被支援者は「社会の困り事を解決するため」協力する。支援者は適切に制度紹介や利用のサポートを行うし、被支援者は堂々と制度を利用し、社会の困り事…被支援者の問題を解決する。

そういう、ウェットでない助け方、助かり方がめちゃくちゃ気に入ったのだ。

これを信仰の中で行うのが宗教の中の慈善活動で(実際、NPOなどは各宗教団体が組織しているものも多く、長年丁寧に運用されていることが多い)これは信仰心のないおれは支援者として参加できないし、

そして地域の相互扶助・・・「生計や価値観を共にし、助け合う集団」という共同体の中の助け合いもある。これが『リベラル疲れ』で書かれている「共同体の中で生き続ける可能性」なのかな?と想像する。

だとするなら、おれは範囲外だ。なぜなら、おれは「価値観を共に」することが、障害を持っていることで難しい(そのコミュニティの障害についてのリテラシーに依存する)。だからこそ福祉の「どんな人間でも人権に基づき適切な制度を利用して生き続ける」ことを喜んでいるのだ。

そしてその懸念通り、本著の「著者の半径5メートルの分断解消」には、おれは含まれない。

本著は

・「リベラル」を自認する著者が農村自治体の会員、そして会長として「保守」の新たな一面を知る前半

・いわゆる「保守的」な価値観を持つ人たちへの聞き取りをし、著者が考えを深める後半

で構成されている。

前半も後半も、決して無益な読書ではない。

著者は貧困問題や、また自身の後天的な脳傷害についてルポルタージュを書いてきたライターで、都市部の出身者である。いわゆる保守的な農村部での生活もしたことがなかった。

その人が住み込んで知った地域共同体の姿は非常に貴重なルポルタージュだ。

特に、災害時のインフラ維持について、きれいごとでなく地域が一丸とならねば農道がふさがれたままである、というリアルは知ることができて良かった。

同じ行政区で同じ税金を払っていても、都市部と農村部では事情が違う。自助より公助を充実させよというリベラルの運動は分かるが、現実問題として住民同士が素早く連携し、トラクターなどで農道をふさぐ倒木を除去する「自助」は「共同体の中で生き続ける可能性」の最たるものだと思った。

都市部のライターであった著者が描き出す稲の様子や田園の景観などは生き生きとしていて、価値観的に馴染まなくても(教育勅語を掲げる神社にモヤモヤしたり、消防団活動の軍事的様式に辟易したり)しながらも、この美しい風景が好きだ、という気持ちは快いものだった。

で、おれは無理である。

これら「田舎の価値観にモヤモヤする」パートにて、「自治体の懇親会でマジで男性が飲み食い、女性が食事の作り手」という、ド典型な家父長制ぶちかましがあるのだが、著者はそれについてドン引きはするものの、本著にその対策等はない。その後自治体の会長になるというのでこの辺を改革したのかなと思ったがその辺については特に記載がない。

そもそも、なぜまだまだ移住間もない著者が自治体会長をやることになったのかと言えば、この村が超少子高齢化しているからだ。

その根本原因までたどり着いている。男女の不平等を嫌い若い夫婦が寄り付かない、だから少子高齢化しているのである。だめだ、スルーしたら。そこだよそこ、「分断」の亀裂見えてるよ!

また、著者は共同体のインフラ、農道を保守するにあたり、外国人のヤード業者(再生資源ごみ収集業)が農道の景観を悪くし、粉塵や振動問題に「外国人ヤード業者」に怒る。振動などは怒って当たり前ではある。

が、日本の社会構造的に、外国人労働者が劣悪な労働環境に置かれ、日本人がいやがる仕事をその嫌悪感ごと引き受けてやっている(再生資源ごみはどこかで再生しなければならないのだから)という根本問題に踏み込まない。貧困問題を扱っていたライターにも関わらず、だ。

著者のことばを借りれば、本著は「半径5メートルの分断を解消したい」とのことなのだが…あまりに、あまりに半径5メートル過ぎる。

女性が辛い目に遭うのも外国人が憎まれるのも、大きな根本問題を解決せずに半径5メートル圏内で論じてしまう。ちょっとはその先を考えなよ!ライターでしょ!!と声が出てしまう。

そして著者は、「保守的な考え方を知ったから袂を分けた保守傾向の友人たちと話せるのではないか?」と考えコンタクトを取る。

しかし読者(おれ)の結論としては、保守傾向の人たちの考えについて知ることはできても、結局許容はできないという、そういう読書体験に終わってしまった。

著者がコンタクトを取った「保守的な」元友人たちは確かに個別事情や、様々な考えを持った一人の人間だった。おれはそういう知り合いがいないのでこの聞き取りによるルポルタージュは貴重なものである。

しかしながら、やはり根本問題に踏み込まないのでこれで分断が解消するものか?という疑問で終わってしまう。

種苗の流出に怒り、中国が嫌いだと言うネット右翼の友人。完全に理解できる怒りだが、対して日本の戦時のアジア侵略についてはふわふわとした言説をする。種苗は守らねばならない。過去の侵略も批判しなければならない。これは両立できないものだろうか。

左翼の祖父、父母の、トランプへの暴言を苦々しく思う大学生の青年。彼は「リベラルの思考停止」を嫌う。例えとして出したのが「トランプがベネズエラ(元)大統領夫妻を拉致したのは緊急的ではあるがベネズエラ国民に対しての正義であり、不正を怒るだけでなにもしないリベラル(祖父、父母)は思考停止」というものなのだが、

これ、おれがまさに昨日読んだICC(国際刑事裁判所)の赤根所長の著書『戦争犯罪と闘う』にて、ベネズエラ(元)大統領についてはICCが2021年から捜査を開始していたことが記載されている。逮捕には至っていないが、ICCはフィリピンのドゥテルテ元大統領を逮捕した実績のある組織であるため、トランプが拉致していなければ逮捕の可能性は高かったはずだ。

おれだって昨日知ったことで申し訳ないけど、リベラルの思考停止…と言われても、その、君も思考停止してるよ…法は機能して捜査が始まってたよ、隠されてた訳じゃないし調べなよ…としか言えなかったりする(おれは他国の大統領拉致に正当性なんて欠片も感じてないので調べなかったけども)。

この青年が「リベラルは疲れる」と発言しており、それが本著のタイトルになったものと思われる。

この発言は、左翼の祖父母の社会不正の怒りをまず吸収しないと話し出すことができない、カウンセリングのようで疲れるという青年の言葉からきている。

めちゃくちゃ個人的な、n=1の話である。そして、リベラルでも保守でもない、リアリストでありたいと言う。

その願い自体は間違っていない。というか、「年長者たちの怒声を聞き続けケア要因とされる」ことは、著者の自治体で行われる「女は厨房、男は飲み食いの懇親会」と地繋がりであって、それを是正したいと願うことこそがリベラリズム(自由主義)なんだが…。と、おれの「リベラル疲れ」の主語について混乱が生じる。

ほか、とてもじゃないがここには書けない、書きたくもない差別的な思想についても挙げられていて、『リベラル疲れ』というか『リベラルが読んでいて疲れる』といった本になっている。実際、おれは読んでいてほとほと疲れた。

著者は地方自治体の現実を書くこと、保守と呼ばれる人たちのありのままを記述することに加え、自分の半径5メートルの人と丁寧に話し、仲良くするという目的を持っている。

根本問題を無視したり、前提が誤っていることは問わない。自分と親しかった人や関わりのあった人から直接個人史を聞く、オーラルヒストリーの収集と呼んでいい手法を使い、自身の半径5メートルで仲良くする目的を果たそうとしているように見えた。

それは本著の宣言通りであり、半径5メートルで仲良くしてみる実践の書である。ただし、マイノリティは排除されてしまうのだが(例えば日本政府の外国人労働者への扱いは無視し、都市部の仕事にあぶれた外国人労働者の騒音のみに焦点を当てて問題とすることなどだ)

おれは分断という言葉が嫌いだと言った。だが、実は好きでもある。

おれが選択した福祉の考え方において、分断は問題にならない。

この地球に生まれ落ちた瞬間から、嫌でもなんでも全ての人間が運命共同体で、どんなに相手を嫌ってもイヤイヤ助けて助けられる。助けが要らない時は極力顔を会わせずに済む。

本著のえげつない差別思想をもつ人についても同様で、とても好ましい人間じゃないがその人が目の前で死にそうになってりゃ助ける、それだけのことが福祉の敷く価値観である。

むしろ「分断していい」のが、福祉の考え方であると理解している。すげえ嫌いなやつとふだん話さなくて済むのはとても助かる。災害時、街で死にそうになってる人間がネトウヨかどうかなんて知ることはない。そこに動いている者がいれば手の届く順から助けるし助けられる、それだけのことである。

この考え方があまり受け入れられないことは承知している。「とは言え、助けた人が○○(ここにはあなたを差別する属性を入れる)で、普段から下に見てくる人間を助けたくなんかない」という気持ちはあろう。それは保守、リベラル問わず共通すると思う。

しかしそれでもやってかないといけないのが社会というやつである。適当に折り合わなければきりがない。

本著のタイトルは『リベラル疲れ』である。

著者は「リベラルはいつも怒っている」と言う。なぜ怒っているかの根本問題に踏み込まず、怒りの発露にフォーカスして疲れている。

そりゃあ疲れるだろうと思う。怒るのはなにか問題があるからだ。問題を直視せずに「怒るのやめて~」と言ったところで問題が解決されなければ怒るのをやめるわけがない。それは疲弊するだろう。

例えば、「青い芝の会」の怒りなんてそのものである。

脳性麻痺の当事者たち60人が車イスのバス乗車拒否に怒り、バスハイジャックをした事件があった。時は1977年、バリアフリーのバの字もなかった時代に、ようやくその困り事が認知された出来事だ。

ニコニコしてたら問題ないと思われるのが社会である。そんなことは世界各国万国共通の常識で、「障害者の人も困ってないって言ってるヨ」なんて思われないよう、頑張って怒らねばならないのが現状である。

著者自体も脳の機能障害を持つし、その内容の著作で医療系の賞も受賞している。この事件は知っていると思うが、それでも怒ることをやめよというのだろうか?まさに自分達の権利のために怒りで抗議した、リベラリズム(自由主義)の発露だが、これも疲れてしまうのだろうか。

なお、おれは著者の著作、『ネット右翼になった父』も読んでいる。著者も本著の前作と位置付けている。

そこにあったのはあまりにも偏った自省であった。

ネット右翼的な言動を連発し、著者にも、著者の母にも、著者の姉にも差別的な発言を繰り返した、他界した父を丹念に調べ、その個別キャラクタを掘り下げるのはいいのだが、その結論として導かれてしまったのが「自分が見方を変えていれば父とも仲良くできたかもしれない」であった。

母や姉は元より、著者自身の傷つきに対してのケアがない。と感じた。

この本のタイトルは『リベラル疲れ』である。

そりゃあ疲れるだろう、というのが、前作と本作を通した感想である。人間、そんなに自分ばっかり反省してるわけにはいかない。

なので、おれは「リベラル(である著者が感じる)疲れ」なのだと本著を理解した。そうでないと著者が言おうが、そう感じたのは動かしようがない。

結論として、この本は、著者の半径5メートルの限定的な自治体個人的記録とオーラルヒストリーの聞き取り実践として貴重なのだが、リベラルの全体像を示す本ではない、と判断した。

※ものすごく深読みすると、このような扇情的なタイトルで本を出すことにより、保守的思想の人たちの対話ハードルを下げ、保守的な人とリベラルな人を橋渡ししたいという意図があるのかもしれない。

この本の副題は「農村自治会長、分断解消に挑む」である。打ち出しているのが「リベラル自認の福祉系ライター」でないあたり、そのへんの意図とかもあるのかなとか。

目的は保守に読んでもらうこと、だからこその傾聴(相手の主張をただ聞き、ひとまず肯定すること)スタイルなのかもしれない。

……と色々コネコネ考えてみたが、いくらなんでも行間を読みすぎだと自分でも思う。やめましょうやめましょう。

そもそもその場合「保守の人と話すにはまずリベラルが酷いこと言われても我慢しないとダメなんだ」スタンスということで、「リベラル疲れ」というか「リベラルの疲れおかわり」である。

…自治体の懇親会は女性が家事をやり男は飲み食いする、と言われたら、自治体の改革に取り組むか、できる限り速やかに荷物をまとめて出ていくかのどちらかになる。おれも女性ジェンダーであるがゆえ、そこはスルーなんかできない。

懇親会の家事そのものは氷山の一角にしかすぎないが、自治体にびっしりと張り巡らされた女性差別の典型的なシンボルである(それは著者も感じているようだ)。

関係の断絶…「分断」を選んだ人が責められるいわれなどない。逃げなければ人の心が死ぬ。怒らなければ「なんで逃げてったんだあいつ?」でおしまいである。逃げて怒って怒って逃げて、リベラルは疲れている。

やっぱ、生存に関わらないレベルで分断しない?というのがおれのご提案である。疲れちゃうじゃん?

おれはコミュニティ論として地域共同体の在り方をまったく否定しない。そういう生き方と共同体の作り方はある。それで楽しく生きられる人が、美しい自然を浴びて暮らすことに異論なんかない。

美しい自然と女性差別と外国人差別の自治体。おれが足を踏み入れることはないが、幸せに暮らしてほしい。建設的な分断をしよう。

@imori0125
イモリを想う