先日のブログ投稿でも触れたが、最近朝井リョウにハマっている。軽薄ともいえそうな軽妙なトークに引かれて、図書館の電子書籍でエッセイ『時をかけるゆとり』を読んだ。トークと同じくらい軽妙で、仕事の合間にするっと読めた。学生時代から社会人になってからの生活が綴られた、若さ弾ける作品だ。
この時点ではまだ「課金」するには至っていない。ポッドキャストを聴き、図書館で(しかも電書)を借り、無料で朝井リョウを消費しているだけだった。
ある日、実家から帰る道中、いつものようにポッドキャストを聴いていると「推し活」の話が出た。その中で、「推し活が宗教のような癒やしの機能を有している。ただそこにビジネスが入り込むと癒やしから離れていく」というような話をしていたのが妙に引っかかった。
私自身はとくに推し活はしていない。根がケチなので「課金」のハードルがとても高い。たとえば、バスケ観戦に行って飲み食いはしても、グッズを買うことはほとんどない。ところが、アリーナで毎回顔を合わせる親戚一家、とくに娘たちの課金のしかたがすごい。チケットの値段もグッズの値段も知っているだけに、「そんなに課金をして大丈夫なのか? そのためにバイトをしていると言うが、それは健全なのか?」と気になって仕方がない。とはいえ、よその家庭のことなので口は出さない。
数日悩んだ挙げ句、私は朝井リョウにはじめて課金した。『イン・ザ・メガチャーチ』税込み2,200円。本が届いた日、たまたま仕事が暇だったこともあって、午後中かけて一気に読み終えた。
若い作家の本を読む機会は少ない。自分からはあまり選ばない。正直なところ、あまり期待はしていなかった。エッセイやトークの軽妙さは、小説の充実を保証するものではない、と。だが裏切られた。
作者自身がオウム真理教のことをどの程度知っているのかは分からないが、私はリアルタイムで見ていたオウムの薄気味悪さを思い出したし、資本主義の中で「推し活」という言葉で搾取され続ける人たちの気持ちは依然として理解できない。だが、それを断罪するでも、擁護するでもなく、すべての登場人物の視点を、体温を感じさせる描写で綴りきった朝井リョウに脱帽した。
これからも私は「推し活」にハマることはないだろうし、「推し活に自分を出し切って幸せを感じる人たち」を一歩引いたところから眺めるだけだろう。神を信じることも、祈ることもなく、冷めた目で「分別」というフィルター越しに世界を見続ける。はたして私は幸せなのか?と自問を繰り返しながら。