偲ぶ会、があった。
偲べるほどにはまだ死を受け入れていないから、なんともよるべない感覚を持ちながら参加した。時間になっても自宅から動けずに、会が始まって3時間後に到着した。
いろんな人が断片断片を握りしめて話していた。わたしの断片も失いたくない。上書きしないでそのまま持っていたい、と強く思ってエピソードを手繰り寄せた。記憶の映像のなかに、わたしの中で根付いた言葉に、ふるまいに。ひとつひとつを取り出しては忘れたくない、と、願をかけた。
博論は書けなかったし満期退学したけど、先生と話すのは何より楽しかった。こんなエピソードを見つけたよ!と報告するとき。脱線して帰ってくるとき。ーーってどう思う?ってよく聞かれ、たいてい、どうって?と聞き返してから話して、やっぱそうだよねーと言ってくれるやりとりだった。
たまに焼いたお菓子をあげるとすぐ食べて、うまい、と言ってくれた。あれはなんのマフィンだったかなあ。もっと他愛のないことを話したかった、ただそれだけ。
息子さんが、「父の偉業をよく知らず」淡々とじいじの側面を教えてくれたのが嬉しかった。お孫さんが描いた紫の羽の生えたユニコーン。それに乗ってうろうろしてますか。
Ciaoっていう自転車になるバイクに乗ってたよね。その辺も通じてる感覚を勝手に持ってた。やっぱりもっと話せばよかった。遠慮なんかせずに。もっと会いに行けばよかった。
早く死ぬのは周りを傷つけることだよ。みんな北極星をなくして舵をきれず、泣いてます。
院生の派閥のようなもの、からは距離をとっていて、ほっとできる存在のお二人とテーブルをかこんだ。たぶん斜に構えたテーブル。
懐かしい先生に声をかけてもらったり、密かに憧れの研究者さんとも話したりした。二次会はとてもいいメンバーで、なんとも和やかな時間だった。考えないでおいた場所、光を当てないでいた箇所に人が入って賑わったような。安心して鍵をあけれたような。それぞれのテーマを持ち寄って先生に会い、その縁で出会った人たち。それだけで安心な広場になる。
それにしてもほんとうに、どこ行っちゃったんだろう、そんな感じ。