一つ前の日記で書いたが、実家がなくなる。越した家は父しか住んでないので「父の家」と呼んでる。や、実家も母が亡くなってから10年は父しか住んでないのだけど、わたしが暮らした年月がないから「父の家」かな。先月、怒涛というか怒りの引っ越しを終えてそのあとはじめて実家に行った。もう、ほとんど廃墟。暮らさなくなるとこうもすぐに荒むのかと驚いた。
この家で暮らしたのは19歳までだったのでそんなに思い入れはない。狭くてコンプレックスになるような家だった。どうしてうちは、と言いたくなるような。
でも今日あらためて感じたのはここでの光は特別だったということ。
木漏れ日が特別きれい。庭からまるい光が差し込んできらめいている。そう、わたしはこの家というより庭が好きだった。
昔はポポーというねっとりした甘い果実のなる木があったり、薔薇も咲いていた。家庭菜園的なものもあって、茄子とかオクラ、茗荷も採れた。
いまは白木蓮と水仙と梅が残っている。山茶花と山椒の木も。
白木蓮はすごく大きくなって咲くとほわっと灯りみたいに明るくなってそれがなんだか誇らしかった。なぜだかわからない。梅はもともともう一本あって、わたしか妹が生まれた時に祖父が植えてくれたものだった。それは今回の父の引っ越しの理由である、都市計画で数年前に撤去された。半分公共の土地にはみ出ていたからということだった。
残っている梅はもうすぐ咲きそうだ。父はこの小梅で梅干しをよく漬けていた。
白木蓮も傾いでいるが蕾が膨らんできている。ああ、咲いたの見たかった。
都市計画、公共事業に今更文句はないけどこの庭の草花とさよならするのが何よりさみしい。
冬はパリパリと小枝や枯葉を踏みしめる。そんなところで育った。庭よありがとう。