X(旧Twitter)はもはや、言論に値する場ではない。
最近のTLは短絡的な文章しか流れてこない。それは単に自分のイデオロギーを善く見せるための、一種のプロパガンダのようなもので、正しく見えるような内容でも、詭弁に満ち溢れている。
感情論と対人論証とトーンポリシングとチェリーピッキングと、教本片手に見れば古今東西あらゆる詭弁を学べるに違いない。
それでも距離をとれるならば、濁流から上がるかのごとく安定したTLを構築することもできるだろう。
だが、XにはRP(リポスト)という機能がある。これが全てを台無しにしている。
どんなに離れた場所の小火でも、それを我が物にしてしまうのだ。そしてその小火は、悪意とエゴによって煽られ、増大している。
正しい姿勢を貫こうとしても、煙に巻かれて前が見えない。そもそも見ることが間違いであるとさえ言える。
だが、言いたくなってしまう。誤った発言を見たなら、訂正したくなってしまう。
1+1は当然2である。では、「1+1は当然10。これがわからない奴はバカwwww」のようなポストがあったとしよう。
実は、これはある条件をつけた場合には間違っていない。この式に出てくる数が二進数であると定義したならば、合っているのだ。
むろん、このポストにはそんなことは書かれていないから、「いや2だろ」とか、「義務教育の敗北」とか、「言い方ってあるよね。間違ってるのお前だし」とか、考えるまでもなく浮かんでくるだろう。
そこで踏みとどまれるならば、それに越したことはない。だが、一度言及してしまったなら、それは自らを戦火に放り込むのと同義なのだ。
発端となったポストをした彼、あるいは彼女(ここではポスト主とする)は、数多あるリプライ(もしくは引用リポスト)の中から、「確かに二進数だったら成り立つけどさあ」や「二進数だったら下付き文字で2って書きなよ」のような書き込みを狙う
のではなく、
「こんな当たり前の間違いにも気づけないのか」「バカなのはお前。バーカ」のような反応を取り上げる。
そうなると、もうおしまいだ。
その反応に対して「二進数も知らないの?バカは黙ってなよw」と返信するだけでいい。
リプライのツリーであればポスト主のリプライのついたスレッドが優先して表示されるようになっているし、引用RPであればポスト主をフォローしている人が見やすくなるだろう。
いずれにしても、「正しいのはポスト主で、間違っているのは相手」となるだろう。これは多くの場合、間違ってはいない。ただ、ここからが問題で、
「反論している人が間違っているんだから、ポスト主は正しいんだ」となってしまえば、それは見逃せない誤謬である。
深く掘らなければ見えないだけで、正しく否定している人はいるのだ。ただ、そういう人はポスト主が取り上げないため、どうしても見えにくい位置になってしまう。結果として、「ある場合では正しくても、全体としては間違っている」のが「正しい」言論となってしまうのである。
これはもはや、取り除けない病理である。
書いている私でさえもこの濁流に囚われ、抜け出すにはXごと切り離すしかない。
多少の機能改修でどうにかなるものではなくなってしまった。
バズは文脈を切断し、憎悪のために調えられた箱となって、誰のところにでも届き、届いた誰かもとらわれて、他の誰かに届けるのだ。そういう、悪循環。
当たり前の、考えるまでもない前提が、全て失われてしまった。
だからこそそんな『当たり前』を今一度見つめ直すべきだと思う。
誰でも知っている、義務教育で習ったような、親に教えてもらった、当たり前であるべき当たり前を。
↑ここまでテンプラ
↓呪いを解くことはできません、繰り返すだけです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
インターネットで言論をやることのなんたる虚しさか。
まあ私の観測範囲にないだけでそこかしこで策謀が巡らされているんでしょうけど、みんなインターネットのこと信じすぎですよ。
嘘を嘘と見抜けない人でないと(掲示板を使うのは)難しい。
詭弁に満ち溢れているからこそ、まともに取り合わないのが正解じゃないですか?荒らしは無視ってのは古くから伝わる言い伝えじゃないですか。
今日日そんなスタイルはデマを増長させるだけって意見も耳にしますけど、それはそれとして、ネットリテラシーをしっかりさせる方が優先だと思いますよ。泥棒を捕まえるのは大前提として、扉に鍵をかけようじゃありませんか。猫を捕まえるより魚を隠す方が早いんです。
RPにしたって、視界から消す方法はいくらでもあります。RPする人をリムーブすることも、RPだけを非表示にすることもできますし、それが面倒という気持ちはわかるにせよ、この濁りに住むからには仕方のないことです。
もともとこの河は濁り切っていました。それが多少の部分だけ透き通ってたから、まだみんな呼吸できていましたけど。
ガイガーカウンターも絶叫する汚染度ですよこんなのは。
だいたいこんなSNS、5chとかガルちゃんよりちょっとマシくらいの清さですよ。
泥が流れてきて、言論で稼いでる人にはダメージかもしれませんけど、それならそもそもそんな虚業を止めろとしか言いようがないですね。
このありふれたカス展覧会では、言葉の意味が変質しています。人権は生きる価値くらいの意味しか持ちませんし、チー牛は気持ち悪い男性全般だし、フェミニストその他活動家は人類悪なんですよ。
そこに断りも理もないんです。ただ憎しみと正義の名の下に、各々が好きな棒を振っているだけです。
「品性を疑う」?
ドブ川にゴミが流れていることを気にしないように、こんなインターネットで品性や知性や感性を疑うのは、吉野家でテーブルマナーを説くようなものです。何の意味もありません。
インターネットを鵜吞みにして、インターネットの悪徳を現実に持ち込んでしまうんじゃないか、って懸念はあるでしょうけど、それはインターネットに限らず、大体のメディアでもそうです。そして、その汚染から逃れる方法はありません。その汚染をしているのは私で、あなたかもしれませんし。
やめましょうよ、啓蒙。聞き飽きました、警鐘。陳腐ですよ、提唱。
諦めましょう。
変わりませんし、変えられません。世界はそれそのものによって馬鹿げた強度を持っているんです。
できることは多くありません。
このドブ川を愛して漂うか、嫌って離れるか、ただそれだけです。
簡単でいいじゃないですか。
嫌いながら漂うとか、好きなのに離れるとか、非合理的です。正しくあろうじゃありませんか、ねえ?
視線を逸らさず、見続けて下さい。それはあなたの視界にあります。