○自由律俳句って何
自由律俳句がわからない。俳句ってただでさえ少ない文字数の中で、五・七・五であったり季語があることって背骨ぐらい重要なルールのはずなのに、定型のない自由律って…そんなことしていいの!? と思う。俳人・種田山頭火の作品で、「へそが汗ためてゐる」という自由律俳句がある。これが俳句とされるの、意味わからんくないか? これが自由律俳句ならば自分のツイートだって自由律俳句のときがあるだろう。多分。
○自由律俳句の定義?
自由律俳句協会のホームページを参照した。
俳句は大きく二つの潮流があります。(中略)潮流の二つを大雑把に云えば、俳句は詩であるとし、詩的感動を重視することで生ずる、形式的枠組みや季題の弊害を排除していった自由律俳句と、保守を殉じ伝統的俳句美学の花鳥諷詠と五七五の枠組を守っている定型俳句の二つです。
(自由律俳句協会HP「自由律俳句とは」佐瀬広隆 - https://www.xn--g4tu59bf5i.com/about-01)
俳句=五七五、という固定観念がそもそも間違っていたらしい。元来の定型俳句には字数や季語という枠があったが、それらを取り払ったのが自由律俳句である。でも定型俳句の亜種が自由律俳句というわけではなく、俳句という文芸のなかに、2大派閥として定型/自由律がある。ってことでOK?
自由律俳句では、決まった形式はありません。「俳句は一つの段落をもっている一行の詩である」と荻原井泉水は述べています。この程度のゆるやかな枠組みの中で、得た感動や印象を物に託し言葉の響き合う表現の一行にします。(中略)
物に託して思いや印象を率直に無駄のない、自らのリズムで一つの段落のある一行にまとめる、これが自由律俳句です。
(同上、佐瀬広隆)
つまり、"「詩のこころ」的なものを念頭に、対象を一行に言い表す" のが自由律俳句…ということでいいんだろうか。
○自由律俳句-実践編-

自由律俳句について調べるうちに、自由律俳句の投稿コーナーを見つけた。俳人のせきしろさんに審査してもらえるのだという。ピースの又吉さんと共著を出してらっしゃるというので、名前は存じ上げていた。
この時は「静」というお題が出されていた。ものは試しと作ってみる。

これを提出した。いま2歳の甥っ子がいて、彼が家に来た折にはプラレールの音がずっと鳴り響いている。そんな彼が成長したら、この音を聞くこともなくなることだろう。そのときはさぞ静かだろうなあと想像したものだ。文字数を削ぎ落としつつ、「甥」「育ち」「電池」で脚韻を踏むことで文芸表現っぽさを演出したのがポイントだ。さあ果たしてこれは、自由律俳句なのだろうか。
○自由律俳句-結果-

佳作に選んでもらった。やったー! せきしろさんのお墨付きをもらったので、こういうのが自由律俳句ってことでいいのだろう。
冒頭に、「自分のツイートも自由律俳句のときがあるだろう」と書いていた。でも「ツイッターはそもそも短文でつぶやくサービスのため、日常をつぶさに見る意識さえあれば、何気ないツイートでも自由律俳句の種に十分なりうる」という方が近いように思えてきた。
上の投稿作品がツイートだったとすれば、
「甥っ子がうちに来るとプラレールの音めちゃくちゃうるさいんだけど、大きくなって遊ばなくなったらこの音を聴くこともなくなるんだろうなー🥹」
ぐらいの内容になると思う。そんな珍しいことは言っていないが、磨き方次第では自由律俳句という表現に昇華しうるということだ。そう思うとやはり自由律俳句は、ツイッター人間に親しみやすい文芸と言えるだろう…
○自由律俳句って何!?
…と、思ったが。
これとかもうすでに自由律俳句じゃないのか!?
自分にはやはり、自由律俳句と切れ味鋭いツイートとの違いがわからない。山頭火とつぶやきシローとの距離がわからない。でも芸人という肩書が邪魔をしていただけで、つぶやきシローはずっと、自由律俳句の巨匠だったのかもしれない。