デモには参加していないと書いたそばから、パレスチナ連帯のデモに参加することになった。知人に誘われたのだ。誘ってくれた彼女のことをとても尊敬しており大好きなので、二つ返事で同行を決めた。そういう行動を取ること自体に忌避感があるわけではない。ただ、参加しても皆と一緒に叫ぶことはおそらくしないと前置きをした。
大きい道路の中洲のような、長い公園。その端にデモ参加者が集合していた。中年〜高齢の日本人が大半で、20代くらいの人は自分たちを含めてもそこまで多くなかった。外国人の方々のなかには小さな子ども連れも見られた。デモに帯同する警察もスタンバイしている。それらの集団の真後ろには出張牡蠣小屋なるものがおっ立っており、すごくちぐはぐな絵面に思えた。醤油の焼けたいい匂いがして、モザイクのようなビニール越しにぼやけた人影が見えた。向こう側からはぼやけたパレスチナの旗が見えていたことだろう。
開始時間になり、デモ隊が動き始める。列の前方では、リーダーが唱える文言をその他の人々が復唱している。後方からは激しい太鼓の音と、がなり立てるようなチャントが聴こえる。その狭間で自分たちはプラカードも旗も持つことなく、黙って歩いていた。自分はポケットに手を突っ込んだりして、極力のんびりと歩くようにした。デモなどにおいて、多くの人は主張内容の如何以前に「活動家っぽさ」みたいなものを敬遠しているのではないか…と先日書いた。そういう人の目に、「叫びもせずただ一緒に歩いてる人」として自分が映ればいいなと思った。それぐらいのノリで参加してる人もいるんだ、と。隣を歩く彼女がいつの間にか被っていた帽子を取り、胸に当てながら歩いていることに気付いた。何を思っていたのかはわからない。
デモ隊が唱えるチャントの中に「パレスチナに正義を」という文言があった。それが嫌だった。「パレスチナに正義を」と言うことは、暗に「イスラエルは悪」という対義語を包摂してしまう。もちろんイスラエルが今やっていることは悪だ。ただ、イスラエル「国家」のやっていることが悪なのであり、イスラエル「人」が悪なのではない。国家と民族を同一視してはいけない。それを分かったうえで叫んだとしても、通りすがりにこれを聞いた人は「イスラエル〈人〉は悪いんだ」と誤解し、内面化してしまうかもしれない。端的な言葉のチャントでは、そこまで補足することができないから。だから、ものすごく慎重に言葉を選ぶ必要があると思う。チャントとしての響きの良さが意味に先立つべきではない。そんなふうに思えど、今の自分は「正義を」と唱える集団の一員だ。これがしんどい。こういうことがあるから、大きな集団に連なることは自分にとって難しいと感じる。
往来の人々の目が気になるものかと思っていたが、トータルで考えるとそうでもなかった(もし一人で参加してたら話が違うとは思う)。歩き始めの数歩は、見世物というか俎上の鯉というか、そういうものに自分がなったように思え、身をじりじりと焼かれるような感覚をおぼえた。でもすぐに慣れた。沿道には奇異の目を向ける人もいれば、無視して通り過ぎる人もいる。デモを撮影しようとスマホを向けてくる人もたくさんいた。そんなこと言ってる場合ではないのはわかるが、普通に顔撮られてんなあと思ってしまった。もちろん、撮られて拡散されることはデモにおいてものすごく有意義だ。反面、――「一緒に歩こう 声を上げよう」というチャントもあったのだが――ライトに参加したい人ほど、政治行動をしていると周囲の人間に知られるのが嫌だろうなと思う。撮られるということが参加の障壁を上げている。仕方ないけどジレンマがあるなあと思った。
デモ隊は車道の片側を占領するかたちで進んでいたが、一時間ほど経過した時点で歩道に誘導された。警察から「通行人の流れを阻害しないようにこのまま解散してください」という指示が出る。デモってこんなヌルっと終わるもんなんだ。リーダーっぽい人が謝辞や次回の開催予定などを口にしはじめているのを尻目に、自分たちはそのまま歩き続けてその場を離脱した。これが2度目のデモ参加だという彼女は、「緊張した」か「つらかった」だったか、そんなようなことを言って息をついた。デモに参加するということについて、彼女も自分の中で色々と齟齬を抱えている。それを押し殺して参加している。「こういうのは数が必要だから」と彼女は言った。自分よりよっぽど大人だ。
実際にデモに参加してみて、やはり「活動家っぽさ」の払拭が必要だと思った。デモ然としすぎているデモ。強くて固い言葉。プラカード、原色に太いゴシック体が多くて怖い。このデモによって問題を知ろうとする人もいるはずだが、「ヤバそうだから関わらんとこ」という溝をより深くする人もいるはずだと思う。「子ども殺されまくってるのヤバいと思う人、一緒に歩いてみませんか 叫ばなくても大丈夫!意外と簡単だよ〜私も今日が初めて😄✌️」みたいなカードを用意すればよかったかもしれない。長い隊列の中にそういうポップなゾーンがあってもいい。また、ナチスが若者に支持された一因には、制服などのかっこよさがあるという。(例は悪いが効果が実証されてるということで)それに倣い、スタイリッシュな雰囲気づくりをすることで、加わってみたさみたいなものを誘発できないかと思う。やり手のコンサルとかデザイナーとかが運動に加わってくれたらいいのになー。
あと、参加する人間の属性がバラけてればバラけてるほど良いはず(自分と同じような人も参加してるんだ〜という関心の持ち方をされうる)なので、比較的若い自分が参加したことにはそれだけで意味があったと思う。それを踏まえると今後も参加したほうがいい…けど…やっぱしんどいというのが正直なところ。直接的に集団の一員にならずとも、同じ目的のために連帯することはできると思っている。こういう話題はただでさえしんどいから、自分の納得できるやり方やレベルで行動できれば嬉しいと思っている。ただ、「こういうのには数が必要」というのはどうしようもなく正しい。
これを機にものすごく行動的になるということはないが、「自分が参加することはまずない」というマインドは無くなった。参加してよかったと思う。