休暇のための下準備について ──Bas Devos監督『Here』を見て

inuinui
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 その映画を見たいと思ったきっかけは、休暇に向かう主人公を羨ましく思ったからだった。「冷蔵庫を空にするためにスープをつくり、親しい人に配り歩く」という時間の過ごし方は、聴いているだけで穏やかな気持ちになってくる。

 ベルギーの映画監督バス・ドゥボス監督の新作『Here』を、長野ロキシーで見た。

ヨーロッパに暮らす主人公はもうすぐバケーションに入る予定で、そこから数ヶ月間は家を空けることになる。下準備、としての行動である「スープを作ること」と「人に配ること」は、それ自体がもう十分に精神を休ませるための行為にも見えた。映画に描かれた暮らしの細部を見ているうちに、人と会うことと回復、について考えたくなっていった。

 パンフレットに書かれた監督の言葉のなかに、「ここでは会話のはじめに自分が話していることを理解できるか確認することが頻繁にあります」という言葉があった。異国の路上や店のカウンターで起こるそのシーンを想像する。ベルギー・ブリュッセルのまちを舞台としたこの物語には、移民社会や多言語都市という背景があるらしい。ただ、そうでなくても「お互いの話していることが理解できるだろうか」という不安は、どんなまちや社会、人と人の間にもあるように思う。監督の言葉は続く。「そのような街で私は何を頼りに人は他者と繋がれば良いのか常々考えています」。

 人との繋がりを求めているし、「自分自身のままで、誰かの隣にいられた時間」はとても豊かだなと思う。あとから振り返ると、あれは回復の時間だったと思うことが多い。誰かの隣にいることは、時には口実が必要だったりする。仕事の話をするだとか、美味しいものを食べに行くだとか、借りていたものを返すだとか。そういう口実を必要とせずにただ「今日はここにいたんだね」と隣に座ることのできる相手を、友人と呼んでいる気がする。指で数えられる人数でも、そういう人がいることは嬉しいことだ。

 そう思うと、「つくったスープを渡しに行く」というのは、なんていい口実なんだろう。もっと歳を取って、その時住んでいる場所のご近所さんとの関係性が長くなってきた頃にでも真似したい。顔も見せられるし、「しばらく顔を見せなくなるよ」と伝えることもできる。映画を見てからというもの、人と会うことで、なぜ回復するのかを考えている。地方に引っ越してすぐの頃は、友人と会ったり食事をしたりするためだけに東京まで何度も足を運んだ。あのときは(理由こそ言葉にできなかったけれど)新幹線に乗ってでも友人たちに会いたかったし、自分に必要なことだと信じていた。いま思うと、不思議なことだ。人とすれ違いながら駅に向かい、ようやく到着した街でも人混みのなかをかき分けて、友人たちに会いにいく。彼らでなければいけない理由はなんだったんだろう。

 世の中には“親密さ”という光があって、光合成をするみたいに、平穏や安心を生み出しているような気がする。その光にあたるのが好きだ。愛情や友情とも少し違うその感情はまだ自分にはうまく言葉にできないけれど、少し前に話を聞いた人は、ここまで書いてきたような話を一言で「人の灯り」と言い換えていた。友人に会っているとき、僕は人の灯りのようなものに照らされている。自分も時々は灯りであれたらいいな、と思う。

──Bas Devos監督作品『Here』を見て

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