身のおきどころ

その日は映画を観にでかけた。夕食の時間にかかりそうな上映時間だったので、先に劇場近くで軽めに夕飯を済ませた。食べ終わった時まだ開場時刻まで時間があったけれど、映画館のロビーで時間を潰そうとそのまま向かった。

初めて訪れる劇場は古くからある施設のようだったが館内はきれいに改修されていて、受付にいたスタッフは物腰がやわらかく、初めて訪れる場所に対して生じた緊張が解けるのを感じた。

ロビーは珍しくもない、いくつかのソファや折りたたみ椅子が並んだ光景だった。足を踏み入れた瞬間、緩んでいた意識に再度ピリッと緊張が走った。座席に一人分ずつのスペースを区切るように、番号が振られている。その番号の意味するところがわからなくて、不安な気持ちになった。数字以外に、注意書や案内はとくに見当たらない。

あとからはいってきたスーツ姿の男性と、学生らしい女性が番号を気にすることなく腰掛けたのをみて、とくに意味はないもののようだとようやく判断することにして、私も二人に倣った。

ちょうど今は春休みで、新学期などという言葉とはもう縁遠くなった自分にも、この時期になるとよみがえる失敗の思い出がある。大恥をかいたというほどでもないささいなことだけど、忘れることなく記憶している。

昇降口やホールなどでクラス分けの一覧が張り出され、それを見てから自分のクラスに向かう。まだ親しんでいないクラスメイトがぽつぽつと着席しているなかで、さて自分はどこに座るかという時、私はとにかくすぐ自分の席を定めて腰を沈めてしまいたい。立ってふらふら歩いているとそれだけで悪目立ちするような気がして、周りを観察することよりも、居心地のよい席を探すことよりも、すぐ腰を落ち着けたい思いを優先して、入り口近くの手近な場所に座ってしまう。

しばらくして後から教室に入ってきた生徒に、「そこ私の席なんだけど……」などと言われ、ここがあなたの席ということは、私の本当の席は別にあるということ? なんてことはない、すでに座席指定された名簿が眼前の黒板に書かれていた、ということが中学であり、高校でもあり、大学でも似たようなことがあった。

つまりこれはその場のルールや空気を読んでそれに倣うという能力の欠如なわけだけれど、数回ほどそれがあったことでようやく私はそれに自覚的になり、初めて訪れた場所でどこかに座る時は、何らかの指示がないかどうかを意識するよう努めるようになった。

入学式や新学期というと年に一度の特別な日のことのように思えるけれど、似たようなことは日常のなかにもある。駅で電車を待つ時に、同じホームでも路線によって立つ場所が違ったり、各停と特急で並ぶ列が分かれていたり。始発かそうでないかで列が分けられているのは、ことさらわかりにくい。中扉から乗車するバスと、前扉から乗車するバスの違い。バス停でも、どこを先頭にして並べばいいのか。コロナ禍下の時は、休憩所の椅子なんかに一人おきの空席をあけて座るようにといった指示もよく見られた。

別に間違えても何ら大きな失敗ではないのだし、人に質問してもいいわけだけど、ふと判断に迷ったその瞬間は自分の身のおきどころが見つからないような、不安な気持ちになる。ホームにいたにもかかわらず適切な場所に並んでいなくて目的の路線に乗れず、走り去る電車を見送った回数も数え切れない。

番号が振られていたり、指示が書かれているのは本来親切なことなのだ。何もない状態でその場の暗黙の了解を読むことを強いられたら、愚鈍な私は必ずあぶれてしまうと思う。

だけどそっけない数字から発せられる「そこにあるべき規則を読み取れ」と匂わせる圧もまた、同じくらい私を緊張させるものだと気付いた映画館だった。ロビーの椅子に振られた番号が何だったのかは、けっきょく最後までわからなかった。

劇場内の座席は事前にオンラインで指定購入していたので、開場してすぐまっさきに向かい、沈み込む。安心感。

@inunofun
人生の不安定さのわりに情緒は安定している。おいしいものと毛布のおかげ。ちょっと長いtweetとして書いていきたい。あるいは魔法のiらんど。