いくつもの私をまとう

伊織ゆう
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何をもって私が"私"であると言えるのか、そんなことをずっと考えている。

外出した時の私は他の人にも愛想良く、比較的大人しい人間である。しかし外出していてもそうでない時もある。マスクをしてメガネをして表情の変化もわからず、人と会話をしようとすらしない。人との会話がひたすら億劫でほとんどの物事に拒否をしている。私はこれを鎖国モードと呼んでいる…。

どちらの私も私ではあるが、同時に本当の私ではない。

SNSでもアカウントによって私は違う。特にXで私は自分の汚い部分を晒すような赤裸々な話や深い話をするアカウント、それの上澄みのような表向きの綺麗な考え方を流すアカウントなど、アカウントを切り替えるのと同時に私自身の考え方の表現を変えていた。親密度の段階ごとに公開する範囲が変わり、私は変化した。Misskeyに移った今も私はそれの名残を感じる。

どんなに変化したとして、どれも私なのである。SNSの私が本当の私か?と聞かれると大部分はそうである気がする、と言える。でもこれであなたはあなたであるのかと聞かれたら違うと答える。

いくつもある私であると思う部分を継ぎ足したところでそれが完全な私かと言われればそうでもない気がする。

「私は○○です。」という文を延々と書いて羅列された文を見てこれが私だ!とはなれない。料理が好き、絵を描くのが好き、○○ができる、できない……それらを書いてじゃあこれであなたなんですね、と言われたらそれは違う。場合によって使い分ける自分が多い分矛盾することが多く、○○があるから私だとは私は言えない。

私は私を想像する時、ふわふわした掴むことができないものが頭の中に浮かぶ。抱きしめたらきっとそこに何かが存在するのだろうが私はまだ触れるごとに変化するそれの全体像を掴むことが出来ない。

幾重にも私は私を纏い、本当の私とは何なのか。概念について考えて、考えて、考えて、考え続ける。いつか私は私が何者かを完全に理解できるのかもしれないし出来ないのかもしれない。出来なかったとしても考えることに私にとっての意味がある、と思う。

難しいことは考えられないし、上手く表現できないことが多い。文字で表現出来ないのなら絵で表現したい。自分のために私は私を表現したい。それらを見守ってくれたら嬉しい。

ここで私はできるだけ文字で表現をして、後から整理したり考え直したりしていくつもりでいる。このままのんびり書いていきたい。