たらこ。明太子。おにぎりの具で入っているとうれしいしパスタのソースとしてもおいしい。バゲットに塗ってもフライドポテトをディップしてもスナック菓子の風味としてもイケていてかなり万能だ。
わたしがよく作るおかずに「にんじんしりしり」がある。
にんじんを千切りにして、オリーブオイルで炒め、最後にめんつゆとたらこで和えるのだけど、ここで冒頭に触れた「たらこ」が出てくる。
スーパーで買ったたらこに包丁で切れ目を入れ、スプーンで中身をかき出す。
この行為がなんとなしに最近とっても残酷に感じられてくるのだ…。
わたしは「動物や魚がかわいそうだから動物性のものを口にしない主義」ではない。
出荷のためのトラックに載せられた牛を見て何にも感じないわけじゃないけれど。食物連鎖の一環として、この地球に生かされている人間として生を受けたからには、それはもうやっぱり仕方がないことだと思っている。
今日を生き延びるために食事をする。他のいのちをいただいていることをちゃんと自覚して「いただきます」を言うようにしている。
プランクトンを食べる魚は海鳥に食われ、昆虫を食べる蛙もまた鳥に食われ、その鳥もまた他の獣に食われ……。何億年もそうやって回ってきているのだから、人間だけがその輪から外れるのもなかなか難しい。もちろん、考えなしになんでも殺して食べて、食べきれないから残して捨てる、なんてことは最低だけれど。
話を戻します。
たらこに包丁で切れ目を入れて中身をかき出す行為。これを残酷に感じること。
たらこはスケソウダラの卵巣だ。
つまり、赤ちゃんになるはずだったものなのだ。
海で暮らす鱈。そのうちの一匹、お腹に卵を抱えたお母さん鱈が泳いでいる。お腹に自分の赤ちゃんを抱えるお母さん鱈は、いつもより注意深く泳いでいたかもしれない。けれど、ひょんなことから捕まった。きっかけはきっと、些細なことだったのだ。お母さん鱈と赤ちゃんたちは卵巣ごときっぱり切り離され、赤ちゃんたちはこの世に産まれることもないまま、人間の食卓に運ばれてゆく。
まさにその結果としてのたらこが、わたしの目の前に、存在している。
仕方がないこととはいえ、ここまではっきりと、そう遠くない過去に「いのちだったもの」「産まれてこなかったもの」を生々しく目の前にすると、身体の奥から溢れてきそうになるものがある。
こんなふうに感じるのは、わたしの身体が女だから?
…………。
何はともあれ、こんなことをくるくると感じるいとまがあるのも、大変な幸福なのだと思う。間違いなく。
だからせめて、目の前にあるたらこ…かつていのちだった、産まれてこられなかった赤ちゃんたちを、ちゃんと食べてあげたい。食物連鎖という大きな生命のサイクルで包んであげたい。せめて。それしかできることが今はもうない。
そう考えながら、先のまるいスプーンを使って、たらこの中身をそっと、なるべく力まず撫でるようにそっと、そっと、集める。