詩織
わたしの名前。
しおり、詩織。
音の響きも、あてられた字も、気に入っている。
「詩」という単なる記号が、はたしてどんな力を持っているのかはわからないけれど、わたしは小さいころから詩をかくのが好きなこどもだった。
小学2年から4年まで担任だった国語科の田中先生は、国語の授業の中でも、詩の時間を特に大事にした。
毎月、両方の辺が25cmくらいの正方形の画用紙に、オリジナルの詩と絵をかく。
わたしはその授業が大好きで熱心に取り組んだ。田中先生もわたしの詩をよく褒めた。
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小学生から中学生、そして高校生になった。詩をかくことは少しずつ減っていた。
高校2年のとき、夏休みの課題で、作文か詩か短歌かどれかを選んで書いて提出するというものがあり、わたしは詩を選んだ。そうして久しぶりに詩をかくことになった。そのときかいたのは、8歳の頃に亡くなった大好きな祖父のことを想う詩だった。
その詩が、なんやかんやで県で一番良いと評価され、夏休み前の全校集会で全校生徒の前で壇上に上がり表彰される、なんてことになった。
そのときのわたしは、恥ずかしいと思った。
全校生徒の前で注目されることも、詩なんて、ポエムなんて、小っ恥ずかしいもので県一番になったことも。友だちやクラスの男子や嫌いな体育教師から「ポエマー」とか言われるのも、恥ずかしかった。あんなもの書くんじゃなかったとも思った。
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詩を織る、と書いて、わたしの名前だ。
詩やポエム=恥ずかしいもの、笑われるもの、バカにされるもの、という雰囲気は、「一般的な大人」の皆様の中には、十分あるだろう。
あのとき、詩で表彰されたことを恥ずかしいと思った。17歳。
あれから10年くらいの時間が経って、わたしはもう一度、言葉を探し始めている。
「詩なんて、恥ずかしい。無益。わかりにくい。はっきり言えばいいのによ。抽象的。お前の言っていることは、なんだかよくわからない。」
けれども、直接的な言葉は、時々、その意味を見失うことがある。真意が隠されて、さみしそうにしていることがある。
わたしにとっての詩は、かたちのないものに対して、自分なりに探した言葉で、その輪郭を添えることだ。
詩織。
わたしは、詩や言葉を探し、自分なりに織り込み、一枚の絵をかく。
それは不思議すぎるくらいに、ごく自然なことのように感じられる。