わたしは、自分の生活に対して、なんて無頓着で横暴で無責任に生きていたんだろうと、近頃よく思う。
日々の掃除のことや、自炊のこと、食事のひとくちひとくちや、洗濯した洋服を畳むこと、お金のこと、税金のこと、健康のこと、職場のこと、家族のこと、恋人のこと、友だちのこと、自分のこと。
「めんどくさい」、そんな投げやりさで目を背け、そのくせ欲しがってばかりいた。
果たすことを果たしてから、権利は主張したり意味をもったりするのだろうに。
一週間衣食住をすれば、当たり前に家の中には一週間分の汚れが蓄積される。食べ物のごみ、髪の毛。使ったあとの下着や、洋服。
それらを掃除したり、洗濯をしたりするのは、「一週間この場所で生活を送ったわたし」の、責任だ。
そう感じてみると、これまで悶々としていた心の中のある一部分が、すっと風に乗って吹かれていったような気持ちになり、
生活のひとつひとつ、家事や食事、睡眠や起床、通勤や散歩、運動、性的な気持ち、夜には月が出て朝には太陽がのぼるということ、昨日は雨だったが今日は晴れ、葉っぱの先の朝露が息をのむほどにすてきなこと、朝起きて顔を洗うときの水を冷たいと感じること、秋と冬の空気の匂いの差を感じるひととそれを共有できることー。
そういった生活の中の粒みたいなものが、一瞬一瞬、以前よりもはっきりと感じられるようになってきていて、
あー
これが、もしかすると。生きるという感じか、と
そう感じられてくるのだった。
わたしはやっと、わたしとしての「生」を思い出し、それらを少しずつ実感しているんだと。
それはとてもとても、本当にとても、ありがたいことだと思う。