おにまい論にも書いたけど、個人的にセルフケアの概念が大事だと感じるのは、自分の身体への配慮を通じて他者の身体への想像力が培われると思うから。逆に自分の身体をぞんざいに扱う人は、誰かが代わりにケアしてくれてたり、他者に対してもそういう態度になってたりすることに気づかないんじゃないか
愚行権もたぶんそうだけど、ケア論の文脈で強く批判される個人の自立/自律とか自己決定といった概念はきわめて健常者男性的な考え方で、社会に不可欠なケア提供の役割を周縁化して女性に押し付けてきたといわれてるわけで、このあたりはもっと真面目に考えるべきだと思ってる
自分自身を振り返ってみても、好きに生きてぱっと死ぬのが潔くてかっこいいんだ、みたいな価値観が回り回って、子供や病人や障害者などのケアを必要とする人たちや、そういう人たちへのケア提供者を下に見るような考え方につながっていないかというと、わりとあやしい気がする
https://twitter.com/teramat/status/1789000706252570935
わたしが気になっちゃうのは、好き勝手にやって死ぬからいい、誰にも迷惑かけない、みたいな考え方そのものが、他者にケアを丸投げして生きてきた健常者男性の自立や自己決定という神話に基づいていて、それが立ち行かなくなっても神話を手放せずに心中しようとする態度に見える、というか…
セルフケアについての話を眺めていたが、一般的には「セルフケアしよう(ストレス状態にある自分の現状を見つめて、いたわろう)」という言葉であるはずが、一部で「セルフケアしろ(己を律せよ、自分の精神の至らなさを理解して社会にアジャストせよ)」に繋がる意味で使われている。
両者は意図するところで言えば逆に近い話で、おそらく前者は「社会に合わせすぎて擦り切れてない?自分のための休息時間も必要だよ」なのだが、後者は「貴様はもう少しイカれた自分を見つめて"社会"をやれ」で、「己を認識し直す」以外は、同じ言葉を使っているがまったくの別モンだと思われる。
「ケア」の内容についても多分異なっていて、一般的な意味では「少し好きな事をしてほっとする時間を作ろう?」だが、セルフケアしろと言われる対象としてのオタク男性などは、元から個として好きな事をやりまくっており、むしろ少しは社会性に振って気を使えと言われている感がある。
「男性同士でケアしあえ」などの言葉は更にコンテクストが乗っており、「今現在女に負担させてる事を男同士でどうにかしろや」の意味があったりするが、自分・対人・社会などケアという言葉の範囲を決めて考えないと、何の話をしてるのかわからなくなりがちではなかろうか。
他にも「社会的孤立感からの(セルフ)ケア」というものがあって、これは「"無敵の人"に成り果てない為の"やっていき"」みたいなものであるが、ここに貧困、社会的承認、現代社会の闇などのワードと全体的な閉塞感が加わり、訳わからん事になっているのである。
「社会とのバランスの中での己の処し方(その為の人への接し方)」に着地する話なのであろうが、そこに家族とか恋愛とか気化したガソリンみたいな代物が転がっているのでネットでは即爆発炎上してしまいがちで、まともに話ができる気はしない。いや必要な議論ではあろうが、議論をネットでやるのは無理
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言いたいことはわかるんだけど、セルフケアが結局、労働者の感情上の再生産を社会ではなく「個人」に押し付ける側面があることは否定できないでしょ。元は「他者に感情をケアさせるのではなく」という前書きがあったのはわかるけれどセルフケアの称揚、容易にマッチョイズムに転化する危険あると思う。
「(他人にケアさせるのではなく)セルフケアしろ」が言いたいんだろうけど、セルフケア能力だって有無あるし、ケアの必要量も個人もケアのしやすさも個人によって異なる。セルフケアして労働者として再生産されて明日も楽しく働いてもらいたい資本側からも割と都合のいい言説に化しがち。
Twitterだとすぐあっちの否定はこっちの肯定というようになりがちだから多分伝わらないだろうけど。
相互になされるケアの重要性を「セルフケア」という言葉が切り詰めてしまってる側面と気になる。
ケアしたくない、させられたくない相手に対して「こっちくんな」の言い換えでしかない場合も「セルフケア」にはあるし。
本当だったら「ケアをしケアされる」という互酬性、相互性こそが大事だし、そのための気づき、基礎ステップとしてのセルフケアだったのに「めんどうくさいもの」は「そっち」持ち、自分で自分をなんとかしてくださいの言い換えにしかなってない時も少なくない。
「セルフケアしろ」、「こっちにケアさせるな」って意味だからな。
ケアをさせるなはケアをさせるなで、セルフケアの有用性は有用性で別で話をしていけばいいし、そのほうがいいのに混在しがち。
https://twitter.com/moriteppei/status/1789464460207546800
https://twitter.com/moriteppei/status/1789466115586040152
https://twitter.com/moriteppei/status/1789466221219549516
https://twitter.com/moriteppei/status/1789468043644690938
https://twitter.com/moriteppei/status/1789468175719125291
https://twitter.com/moriteppei/status/1789472623879196787
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このお話で、感情上の再生産を迫ってくる圧力をやり過ごすのもセルフケアだと思います。「セルフケア」は「自分を守るためにも自分を大事にしよう」ということなので、相手の要求にずるずると従って自分を犠牲にする行動を取ってしまわず、ちゃんと自他の境界線を引こうという話になるはずです
一方で、「他人に感情のケアを押しつけるな」をケア提供者が言う理由ですが、その押しつけをする人がしばしばうまく自分を守れていないために他者に奉仕を強いる、とみなしているからではないでしょうか。外で理不尽な要求に過剰に迎合し、家で家族に当たり散らす、のような図式になっていると
この場合の「外」を労働環境として、そこで自分を守る努力自体が「難しい」と感じる人は「セルフケアを要求されるのは過酷」のような反応になるのでしょう。しかし、自分の人権を尊重できない人はより弱者の人権を平気で侵害します。ゆえに弱い側からすれば「セルフケアしろ」は当然の要求になる
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そうなんですよね。だけど、なんか抑圧的に働く「セルフケアしろ」言説をよく目にするようになったと思います。
セルフケアをしようという話、普段から他人のケアをしている人に対しては、そのケアの方向を自分にも向けようという話になって、特に他人のケアをしていない人には、ケアを他人に求めるなと突き放す話として作用する感じがするな。
人がそれぞれ自分にとってケアとは何なのかに向き合うことはあった方がいいと思ってて、他人の世話をすることが自分のケアのときもあるんだよな。向こうからその手応えが返ってくるときとかは、自分のことだけ考えているときよりずっと満たされた楽な気持ちになったりするし。
それが暴走すると過干渉になったり、向こうから思った通りの反応が返ってこないと怒り出す人間が生まれたりするなどもあり、その場合も、他人を巻き込まずセルフケアの領域だけでしてくれという話になったりもするケースもあるけど。
セルフケアの話、セルフケアせよと言われて気が楽になる人、セルフケアをとおして元気になると直感可能な人と、セルフケアせよと言われて気が重くなる人、セルフケアが壁のように感じられる人、がいて、人によって響き方・刺さり方が違うだろうなはある
あとは文脈か。どこで・誰から誰に対して、そのセルフケアはすすめられているのか。または、せよ、とされているのか。 セルフケアは健康増進の手段として勧められる部分に加えて、社会性の象徴とか、功利主義の遵守を期待しての意味合いとか、いろいろありそうじゃないですか。
でも「健康増進のために勧められる」だけでなく「社会性の象徴」や「功利主義の遵守」が忍び込むのは、セルフケアの勧めだけじゃないよね、今日は。健康増進のさまざまな勧め(そして不健康への冷たい目線)のだいたいに「社会性の象徴」「功利主義の遵守」が忍び込んでいる。
さらに、健康増進のすすめや促しのうちに、「不健康な人間は社会性に問題がある」とか「不健康な人間は功利主義を遵守できない、今日の個人主義社会にふさわしくない人間だ」といった含意がしのびこんではいないでしょうか。もし、健康概念に、そういう隠れた意味が忍び込んでいるとしたら。
セルフケアができないことって、精神医療の世界では「事実上、症状や症候のひとつとして取り扱われる」感はあって。精神科医は患者さんがセルフケアできているかどうか、あれこれ質問するのが常。風呂にどれぐらい入っていますか、お部屋は散らかっていますか、等々。もっと症状らしい症状を尋ねる補助手段のようにみえて、案外、患者さんの状態の良くないところ、改善させるべきところとして、しっかりと診療録に書く感じがありますぬ
セルフケアが立ちいかなくなっている患者さんが入院した時に、主だった精神症状に先んじて清潔になるやつ、その清潔の維持が診療録に克明に記載されるやつとか、まあ、なんかいろいろ考えさせられるところではありますね。もちろんそれ自体は入院治療に必要とも思いますが
https://blog.tinect.jp/?p=79410
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/1789440565605781580
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/1789441265395990565
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/1789441908135297152
https://twitter.com/twit_shirokuma/status/1789442770022879499
最近よく「自分の機嫌は自分でとれ!」みたいなことを言う人がいるが、ブラックな労働によって損ねた「機嫌」を癒すためになけなしの賃金を使った消費をさせるような意味合いで使われている場合もあり、眉を顰めてしまう。それって骨の髄まで資本主義の「システム」に組み込まれているじゃないですか。
https://twitter.com/furthest0812/status/1789655008331657704
「自分の機嫌は自分で取れ」は単純に「他人、特に無関係な他人に自分の機嫌取らせようとするな」ってことだよ。
別に「自分の機嫌は自分で取る」は金使わなくてもできることだよ。
https://twitter.com/amaterasu_solar/status/1789834966131445786
ワークライフバランスとか余暇の充実とかも、文脈によっては、仕事時間中最高効率で生産できるようにメンテナンスしとけみたいな、どこまでも人が資本家の道具扱いされてる空気を感じることある…
「男が弱さを認める」問題で言えば、ギデンズの『親密圏の変容』の中で、男が論理性や冷徹性のようなものを持ち有能で社会的に成功し活躍しているからこそ異性に魅力があるのであり、そうでなくなる(弱さを認める、情緒などに繊細になる)と魅力がなくなるというジレンマが書いてあった
社会的に有能で成果をあげるような、論理性や冷徹性を持った「ハイスぺ」男性が、恋愛や家庭のような親密な場に入ると、カサンドラ妻を生んだりDVやモラハラになるわけで、その「両方」をちゃんと持ち切り替えられる主体が「理想」なんだろうが(TL系のマンガのヒーロー像からして)、ムズいよな、と
多分、戦隊モノとか、ロボットものとか、「生身の人間」から「変身(ロボットに乗る)」して戦う、ってのは、「強く」「硬く」「機械的」なペルソナを被って外界と戦って(何かのために)生きなければならない男性的主体の、生身の弱弱しい部分との分裂の寓話と読むのがいいんだろうな
「女は女になる」(ボーボワール)のと同じように、「男は男になる」(あるいは、男を演じるペルソナを作る)んだと思うな。そして、戦いの興奮と熱狂で、いつの間にか硬く暴力的なペルソナが本体のように侵食され、本来の自分を失いかける、という男性性の寓話が、『ハウルの動く城』や『ベルセルク』かな
どっちも、人間に戻るために、女性にヨシヨシされているので、セルフケアしろよ、ってことなのかもだが……
そういう「狂戦士」「獣」になってしまうような労働環境をまずなんとかしようよ、というのは、完全に賛同するんだけど、男性性が潜在的に想定している状況って、環境が安定して穏やかでなくなった場合だと思う。東日本大震災後の福島第一の吉田所長、ゼレンスキー大統領がその例だけれど。
戦争や災害などの、例外的で緊急的で真に過酷な状態が、本能的レベルなのか無意識レベルなのか文化的レベルなのか、想定されているように思う。そして、そのことは平時で平和で繊細な社会では有害さとして現れるのだが、それなくして社会は維持できるのか、緊急時をファクターに入れて考えているかは
「有害な男性性」をなくせばいいのだ、という議論に対する、ちょっとした違和感としてあるかな。
これから、長い長い戦争になる可能性が高いんだからねぇ。戦争の危機が状態がもっと分かりやすくはっきりと物理的・身体的に身近に感じられるようになっていく連れて、色々な価値観や倫理観、魅力の高低とかもひっくり返ってしまうんだろうなぁ、と今から予測してしまうが。