先日呑みの場に誘ってもらい、別の呑みが終わった後に終盤から行って参加した。少しのあいだだったけれど、嬉しかったし、楽しかった。さてその際、文脈はわからないけれど着いたらすぐにフェミニズム的なものを巡って議論(?)があり、若干緊張感が走ったような雰囲気も一瞬あった(いやまあご愛嬌の程度だけれど)。その場の自分の横にいた一人は賛同しないというスタンスで、ほか二人は賛同派(括りとして雑で適切でない気がするけど便宜上)という構図だった。
ここで難しかったのは、"男性"であるところの自分の立ち位置だった。自分はそういう試みは大切だと思っていて、積極的に運動するわけでないにせよ親和的なつもりだし、理解しようと努めているつもり。直接的なフェミニズムの文献等はあまり手に取らないけど(関心はあるけど後回しになりがち)、ジェンダー関連のものは購入して読むこともままある。先日も最近購入した本をSNSでシェアしたりしていた。そうして、何がどう変えていく必要があるのかについて意見を少しずつ形成してきた。しかし、ごく狭い意味のうえでは〈当事者〉ではないから、宙に浮いている感覚がある。それと、そういう立場から、"女性"、あるいは同じ"男性"(ジェンダーは決めつけないでおく)に対してであろうと、フェミニズム的なものの必要性を諭すようなのも、かたちを変えたマンスプレイニングになりかねない。
ところで少しだけ引っかかったのは、シェアしたものを見ていた一人から、そのときに「最近フェミニズムに興味がでてきたの?」と言われたことだった。なぜ引っかかったのか少し考えたが、これはこれで、"男性"だからという理由でフェミニズム(もしくはそのジェンダー問題)を理解していない/関心がないというバイアスを向けられた気がしたからだ。それは"女性"が持つものでしょう、と。別にそういう意図があったわけではないだろうし、どのみち身内の呑みの場でそんな神経を使うべきではないのは大前提としておくけれど。
問題を意識するようになるのには、人それぞれにきっかけがある*。自分の場合、むかし(4年ほど前か)、ひとに「ジェンダー問題とか興味あって」と言われたとき、そうなんだと言ったら、「女の子ならみんな関心あると思うよ」と返されたことがあり、そこから少しずつ関心を払うようになっていった。尤も「XXならみんなYYでしょ」という言い方には、いやそんなことないのではと今では思わないでもないけれど、でも少なくともそのときは「あっ、そうか」と思わされたのだった。また、その後に同じひとが「女性だからという理由で下駄を履かされるようなのは変だ」ということも言っていて、難しいと思わされたこともあった(今回と似た構図の、仲の良かった同期3人での呑みの場だった)。以来、ずっとそのときの光景に駆られながら、前田健太郎『女性のいない民主主義』などを皮切りにして色んな記事や本を意識的に読んでいる(つもり)。なおここでは詳述しないし、正直その影響を認めたくないのだが、より根本的には自身の生い立った家庭環境とそれらへの嫌気、あるいは反面教師にしてやるという思いが、無視できないほど大きな背景としてある。なんとなく、誰にも喋ったことはないけれど。おそらく傍からは自分にはマジョリティ属性が多いように見えるだろうが、内実はその網目から抜け落ちている部分が多いし、あるいは多いがゆえにじたばたしているきらいがある(参考)。
*ここで注意したいのは、同じ経験をしたからといって皆が皆そうなるわけではないし、そもそも「目覚める」「覚醒」といった表現で示唆されるような、何かを知りさえすれば皆が一意の考えを抱くようになるという想定は誤っているということだ。
先に書いたようなSNSでの本などのシェアに際しては、フェミニズム関連とか女性の社会的状況に関する本とかを読んでいると「そういう理解があるアピールでしょ?」などと変な受け取られ方をしたら嫌だなと思ってしまい、躊躇や葛藤が常に襲ってくる(ゼロだとはきっと言い切れないだろうけれど)。でも、「こういう本があって読んでみたよ」と何かのきっかけや共通の基盤としたい気持ちが押し勝ってボタンを押している。
それに、綺麗ごとに聞こえるかもしれないが、「いやそもそも自分たちの問題なのだから」という思いがある。あなたの抱える問題は私の抱える問題でもあるのだ、と。そもそも例えば分かりやすいところで言えば医学部不正入試や都立高校の男女別定員制などのように、生まれ持った属性をもとにした“区別”は仮に差別でないとしても不公正だろう。自分で選んだことでないのに、それを理由に諦めなければならないことがあってはならない。もう少し次元を落とせば、「男らしさ」の要求(マッチョイズム)やホモソーシャル的ノリに耐えかねる自分は、性別役割が薄れることやジェンダー主流化を望んでいる(出身中高の男子のみの教室内では、ウブな思春期男子の“かわいらしい”言動が見られると同時に、運動部を中心に当時も今も憚られるような性差別的言葉がしばしば見聞きされた)**。
**一般的な恋愛にうまくコミットできない、積極的にしようと思えないのは、横並びで適度な距離感のあるパートナーシップのような理想と、双方に少なからず存在する〈男らしさ〉と〈女らしさ〉の眼差しとの上手な折り合いがつけられず、それらのあいだで引き裂かれる思いがしてしまうからだ(参考)(余談だが、商業漫画では“百合”などのジャンルでしか、そういったパートナーシップが描かれない気がするのは一体なぜなのか。いつまでも手を引く側と引かれる側の二者の構図が再生産されていく)。
また、これはコミュニケーションや人間関係一般の問題でもある。月1程度でひとと行っている読書会で、別の文脈で同期が「傷つけたくないのは、自分が傷つきたくないからという理由もある」といった旨のことを語っていた。つまり、相手を傷つけてしまったという経験は、その傷つけてしまった"加害者"側の自分をも傷つけてしまう、だからそれを避けたい、という意地悪く言えばエゴイスティックな理由だ。これは自分もそうだ。自分が傷つけられたくない、大事な誰かを傷つけたくない、その大事な誰かを傷つけたことによって自分が傷つきたくない。男性性自体は否定しがたいしすべきでもないものだが、自分の場合にそれをうまく認められないのは、心のジェンダーとの差とかではなく、それが少なからず内包する有害な男性性(toxic masculinity)や侵襲性に対する過剰な恐れと、そこからくる自身の持つ男性性への忌避感が這いずり回っているからだ(「俺」という一人称がいつからか苦手になって使わなくなったことは、このあたりのことと関係している)。先の読書会では、恐れずちゃんと傷つけあえばいいんじゃないかという意見も出たし、そういう関係性を築こうとすることが大切なのはきっと間違いないのだが、それでも、不用意な言葉で不用意に傷つけてしまうことは避けたい。受け身がとれない不意な痛みほど、後に引き摺る痛みはないから。だから、女性が置かれている今の社会はどういう環境で、どういう見え方をしていて、そして何が女性を閉じ込める呪いとなりかねない言葉なのか(参考)等々を知っておかないと、自分は不安で仕方ない(その裏返しで、他者が放つ、この話題に関わるぶっきらぼうで粗暴に思われる、しかし親密度からか許されて流されていく言葉には冷や冷やする)。
※男性も(が)コミットすべき理由に関するきちんとした説明は、前田(2021) [PDF]を参照されたい。
そういうわけで「最近興味が出てきた」わけじゃなくて前から持っていたので、性別(sex)をもとに線引きしてほしくないなあと思ったのだった。しかし、それでも「男性はフェミニストになれるのか問題」は常につきまとっている(下掲記事参照)。それに自分の場合は、俗に言われる「価値観のアップデートが必要」言説には進歩史観的で反転可能性を考慮していない危うさを感じるし、その中身は結局は反射したマチズモになっているのではという懸念を覚えて賛同しかねる、あるいは危惧する部分があって、そこに乗りきれないという側面もある。だからそこまで露骨に“理解がある”とは言えないのだ。
でもここまで書いておきながらも、一方では今年に入ってから、身近にそういう話や議論をしてくれるひとがいて、そういうものを意識する機会が増えたのは確かなのだ。「最近興味が出てきた」わけではないにせよ、関心が一層強まったのは間違いない。書店などで該当コーナーを丁寧に見る時間も数倍に増えた。自分にとってはとてもとてもありがたいことだと思う。そういう意味では先の言葉は何も間違ってない。
フェミニストというには十分でないけれど、しかし親和的な"男性"としての、その立ち位置や振舞い方はこれからも試行錯誤していくことになりそう。