ファッションは好きだ。ただ、それは自己表現のパーツとして扱う場合である。逆に、自己をガチガチに抑圧してTPOにピッタリ収める、ルールとしてのファッションは大嫌いだ。また流行というやつも、あまり好んで追ってはいない。
私はよく、持っているもののセンスがいいねと言われる。私にとって服を含む所持品は全て私に属するものであるので、自分を褒められていることと同様に思えて嬉しい。時々それ、すなわちなんらかに対するセンサーが優れていることが勇魚としての一番のアイデンティティであるかのように思えることもある。なにせ他に誇れることが今のところないので。
そして、それを抑圧されると非常に嫌悪が走る。私には自分であることでしか自己を認めることができないのに、それを捨てろというのはあまりにも酷い行いではないか!と私は思うのである。
しかし残念なことに、これは発達障害特有のこだわりのひとつであるらしい。そうであると気がついた時、私は世の中の人々にマジで?と思った。自分を自分として表せないことはこんなにも恐ろしく私の目に映るのに、他の人はそれを簡単に投げ捨てることができる(もちろんながら好きに振る舞えない、という理由でそういった制限を嫌う人々がいることは知っている)のだという。そこに人格否定の恐怖を見出している人はあまりいなさそうなのである。ナンテコッタイ。
そんな現実に打ちのめされながら、私は明日も、自分が自分としてあれるようにクローゼットを開け、そして選んだ服のその奇抜さゆえに勇魚vs社会を開戦し、そして7割くらいの確率で負けるのだろう。早く戦わずに勇魚が勝てる社会になって欲しいものである。