年明け早々、能登半島地震に驚かされた。会社からは安否確認の一斉連絡があり、本人「無事」、家族「全員無事」、家屋「無事」に続いて出社「不可能」とは答えづらく「可能」に印を付ける(シニア嘱託の動員はなかろうが)。思い出すのは阪神大震災の取材だ。科学班として初めて災害現場に人を出すと言われ、被災建物の危険度チェックの様子などを記事にしたが、行方不明者の捜索が続く中、完全な分業は難しく、取材全体に関わる泊まりローテにも入った。約2週間の滞在で風邪をひき、京都の緊急学会に寄って帰京した際「やっと帰れる」と安堵するとともに「被災者は逃れようがないのに」と後ろめたさも感じた記憶が蘇る。最近取材した関東大震災100年関連シンポなどでは、発生から何日間か公的支援は当てにできず、地域住民が助け合うしかないことが強調されていた。能登半島は今まさにそうした事態が進行中ということだ。