今の私には命を削って文章を書くようなことは難しくて、がっぷり四つに文章に向き合うことも難しくて、何度も推敲して丁寧な文章を積み上げることも難しくて、だけどまあそれが本業ではないし、そういう整いきった文章にだけ価値があるわけではないのだ、と言い聞かせて日記を書いている。日記ってそういうものだし。なるたけハードルが低いほうがよいのだし。
一方で、やっぱりきちんと思考を重ねて精査し、整えていく文章の面白さっていうものもすごく感じる。久々にそういう物書きに取り組んでいる。修論ぶりとかだろうか。(まあわたしの修論は作品ありきのものだったので、もっと言えば卒論ぶりになるのかもだけれど。)
人に読まれる文章を書くのは難しい。難しすぎる。自分さえよければいい、今の自分の感情を閉じ込めておけばいい、ということとは全く異なる。難しい。自分の当事者性について考えて、自分だけの当事者性を発端に書いたとしても、それはこの世界のだれかと共有しうる当事者性になるかもしれないし、だれかの当事者性と真っ向からぶつかるようなものになるかもしれない。自分の書いた自分のことが、誰かの手に渡ることは希望であり、同時に、畏怖でもある。
思えば卒論とか研究とかって、とにかくニッチな分野を突き詰めていた。卒論であれば「大学の中で一番あなたが○○に詳しいといえるようなものを書きなさい」、修論であれば「日本の中で一番あなたが○○に詳しいといえるようなものを書きなさい」、博論であれば「世界の中で一番あなたが○○に詳しいといえるようなものを書きなさい」というようなスタイルだった(なおわたしは博士は持ってません)。すると、想定される読者は本当に狭い狭い界隈で、ある意味「オタク」的立場の人たちばかりだったから、認識がズレたりだとか、思想がぶつかったりだとか、誤読が発生したりだとか、そういうことにあまり気を遣っていなかったのかもしれない。
そういう経験からすると、今現在の、社会に対して、何かを書くことがなんと難しいことよ。広く読まれる/読まれるかもしれない/読まれないかもしれない文章を世界にpublishすることの恐ろしさよ。インターネット世界を面前にすると、学会がひどく村社会に思える。