結婚式は、「結婚」というフォーマットについて滾々と考えるシンキングタイムになってしまいがち。友達を祝う気持ちと同じくらい、家父長制を呪う気持ちが湧き出てくる。本日の結婚式においては、キリスト教式だったのだけど、神父さんの御言葉と自分のマインドセットがまったく一致しなくて、わたしがもし事前に台本をもらっていたなら赤字で校閲しまくっていただろうな、とか考えてしまった。そんなことを本当にしていたらぜったいにやばいやつ決定なので、わたしのじゃなくて本当に良かった。
愛されてきたことが「ふつう」であり、だれかと愛し合い支え合っていくことが「ふつう」であり、男が先に名を呼ばれることが「ふつう」であり、結婚をすることが「しあわせの定番」であるかのような。そういうことを可視化する装置としての儀式。結婚式を挙げる人間だけが祝福されるのではなく、すべての人が主役となるチャンスがまわってくるような、ピクニックパーティーを、わたしはやりたい。みんなひとりひとり、自分の足で立って生きてこれて、本当にえらいね、ということを祝福したい。誰かが何かを選択したことばかりが注目されるが、誰かが何かを選択しなかったということにも目を向けたい。
結婚式、といえばもうひとつ。最近、10年以上会っていなかった友人から結婚式のお誘いを受けたのだけれど、今どこで何をしているかも知らない友人が、どこの誰かも知らない人と結婚したことを、どうやって祝おうというのか、という気持ちになった。こんな冷淡な人間に見えることを思いながらも、やっぱり「祝い事に対して欠席の意を示す」ということへの罪悪感もあるわけで。そんなときに「そんなの全然出席しなくていいんだよ!」と力強く背中を押してくれた友人にとても感謝しています。無事にお断りできました。
友達を大事にしたくないわけではないし、もしかしたら10年経ってわたしのことを思い出してくれたのかもしれないのでそれはうれしいことだけれど、10年間でただの一度も近況を交わさなかった人より、今目の前で「そんなの数合わせなだけだよ!」と一緒に怒ってくれる人がいることのほうがうれしい。わたしの「時間」のことも慮って、さらには自分自身の「時間」を使って一緒に語らってくれて、そういうことをずっと大事にしたいな、という思いを強くする。
結婚式の予定は当分ないし、それをしたいのかはわからないけれど、好きな友達たちを思い浮かべて円卓に並べる妄想はよくする。わたしの好きな友達と好きな友達が隣に並んでいて、わたしもそこで一緒においしいごはんを食べる。ひとりひとりに感謝のメッセージとか書いておいて、読み上げたいくらい。現実でやったら鬱陶しがられるかもしれないけど、妄想なので許してほしい。そういうの、やりたいな.......。
結婚式をやらずに、自ら主宰の誕生日会もやらなかったら、いよいよわたしのためにたくさんの人が集まってくれる会は葬式かもしれないから、葬式のときにはみんなにメッセージカード書いておくか......。いや、わたしもその会に参列したいな......。わたしが一番参加したいのに、参加できないの意味わかんないもんね......。というか、葬式と結婚式の間に、なんかそういう会があるといいのに、なんでないんだよ............(完)