幼稚園時代からの友達と久しぶりに連絡を取る機会があって、その縁で先週末は山に登りに行った。1泊2日。しばらく連絡を取っていなかった仲なのに、顔を合わせればあっという間にあの頃に戻れる。あの頃、というのは、園庭でセーラームーンごっこをしたり、ムササビごっこをしたり、ドロケイをしたり、ぴっかぴかの泥団子を作っていた頃だ。本当に不思議なことで、25年近く経ってもあの頃と同じ面影で、同じような印象を受ける。中学も高校も大学も仕事も違うのに、驚くほどあの頃と同じだ。
中央道の渋滞にハマりながら、帰る。バキバキの医者(というのは、絶対に労基違反だろっていうくらい働き詰めで、今やロボット手術までこなすような医者)の友人は、運転好きどころか渋滞のことも好きらしく、「小さいころから、渋滞はイベントが延長されていく感じがして好きだった」と言っていた。職業はバキバキなのに、中身はずっと変わっていない。やさしくてあたたかく、楽しいこと好き。
高速から「アムウェイ」の看板が見える。最近、旧くからの友達に急に連絡をもらうと、ねずみ講を心配する人が多いらしいよ、と友人に教える。よかったね、わたしたちは誰もねずみ講の勧誘しなかったもんね、と笑う。今回初めて登山をしたらしい友人が後部座席から「だけど、山登りながらあなたずっと「登山は人生だから」って言ってたよ」と言ってくる。「次のためにちゃんとした登山靴買おうよ」「買ったらまた絶対山登らなくちゃね」「登山ってすごいのよ、めちゃくちゃしんどいしゴールが見えないのに、一歩一歩前に足を運ぶことで、本当に前に進めた、って思える」「ひとつ苦しみを乗り越えると、次も同じことが起きたときに乗り越えられる、っていう自信になる」「2000mがいけたら次は2100mも行けるかも、って思うでしょう」「下りたら登る、登ったら下りるんだよ、人生と同じ」
全部わたしの口から出た言葉だけど、こうして書いてみると本当に宗教より宗教だし、ねずみ講よりねずみ講かもしれない。だけどどれも本当の気持ちだ。都会で疲れたとき、山の空気はとてつもなく澄んでいる。溢れる情報と雑念から離れて、自分の身体と疲労と自然のもつ情報だけに目を向けられる。今年もたくさん山に登れますように。